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久しぶりの大雪

久しぶりの大雪だった。メディアで、都心でも雪、山間部では大雪警報も?というような張り切った報道に、戦々恐々として朝起きてみれば、まだ雪は音もなく降っている途中、庭も道路もすっかり雪に覆われている。
今日は一日雪降りだというから、雪かきは降りやんですればいいか、と放っていたけれど、雪の降りかげんが変わってきた。軽いカラマツの葉状の乾雪から、重い牡丹雪、湿雪に変わっている。
これでは、降りやむのを待っていると、重い雪の雪かきとなって、手に負えなくなる、と10時ころに雪かきを決心した。

階段の上から除雪するのは大変だ。腰を曲げるのが完全な二つ折りになる。
道具もほうきと塵取りだ。まず、箒で階段の真ん中をあけ、そこに脚をおろして、その周りを塵取りですくう。本当に少しずつで、効率は悪い。
もっと、効率よく、除雪の道具を使って、と都会の友人は言うけれど、雪は重い。かよわい女性にはちりとり程度が丁度いいのだ。

ちりとりは便利な道具だ。もう何年前になるのだろうか、あの豪雪の年も、壁と化した階段の雪を、ちりとりで一すくい、二すくい、と本当に少しずつすくって庭に捨て、庭も屋根からの雪もあって2メートル以上になっていたけれど、どうにか階段を昇り降りできる状態にしたのだった。

家の前の道路は、一度は除雪車が通った形跡はあるが、素通りみたいな状態だ。
階段を済ませたところで、車を出せる状態に、とガレージから道路までを除雪することにする。ここではさすがに塵取りは使わず、スコップになる。横に広がった除雪用のスコップもあるが、これでずずずっと押しやるには、こちらの力も足りないし、地面ががたがたですべらない。
ここでも一すくい、二すくいとすくっては、庭の邪魔にならないところに捨てる。

道路除雪の際、雪を左右に振り分けたのはいいのだが、道路と敷地の境界線みたいに雪の壁ができている。これでは車が出せないし、出せたとしても入れない。
徹底した雪かきでなくてもいい。車さえ動かせるようになればいいのだ。
といって、今日は籠城を決めているのだが。

そこに、除雪車がきた。ジープタイプの車の前にシャベルがついた簡易除雪車だ。もうすこし丁寧に道路の除雪をしてくれるらしい。我が家の前に雪を寄せないで、と依頼する。
いや、このシャベルの角度が変えられなくて、往復しますから、復路で調整しますから、という。

さて、今日は籠城と決めていたけれど、道路と我が家の除雪がすむと、なにかそのままでいるのがもったいない。
6キロ下に降りたコンビニに毎朝、新聞をとりにいくのだけれど、今日はやめよう思っていたところだ。うずうずしてくる。
よーし、行ってみよう。まだ降っているけれど、もうそう積もることはなさそうだ。

別荘内の道路、中央の村道、雪は残っているけれど、轍や圧雪、シャーベット状になったところと、変化に富んでいる。うーん、ちょっとやばいかも、と思いながらも、ゆるゆる、下り坂はセコにして、軽いブレーキでスピードを抑えて、と教わった雪道運転術でいく。
どうにか下りた。おもらしをするほどの恐怖感はなかったけれど、相当びびっていた。

コンビニの駐車場はじゅるじゅるのシャーベット状で、駐車ラインもみえない。適当に止める。
おはようございます!と大きい声であいさつをするのはいつもの通りだ。
いやー、来れたの?とコンビニの店員さんが驚いてくれる。今日は来ないよね、無理だよね、と言っていたところらしい。
会いたくてきたのよ、と半分うそ、半分本当らしく言う。ほかにお客がいなければ、ハグでもしたところだ。

本当に新聞を買うためだけに危険を冒して、バカだな、と思う。
これで事故なくてよかったけれど、自損事故にせよ、事故っていれば、年よりはこんな日の運転をするべきではない、とだれからも言われるだろうし、私も言う。

2月初めには、認知機能検査なるものを受講しに、早朝に行かなければならない。
こんな雪の日なら行かない、と思ったり、いや、頑張ろうと思ったりだ。
まだ、胸がどきどきしている。
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政府救援機はただではないらしい

明日、日本政府がチャーターした全日空機が武漢に飛ぶらしい。
コロナウイルスによる新型インフルエンザ発生でロックアウトされた、武漢に住む邦人のなかの希望者を救出するのだという。

武漢の空港は閉鎖されて、空港としての機能はしていないようだし、政府間で話し合って、救援機にむけて一時的に空港をあけるのだろう。
アメリカからの救援機も飛ぶというから、時間をあわせて、空港を開けるのだろうか。

武漢に住む邦人は700名以上というが、全員が乗れるのかどうか、希望者だから全員が希望するかどうかもあるが。

この救援機、武漢から東京へ飛ぶのだろうが、この特別なフライト、無料なのだろうか?
そうではない、と聞いたことがある。

アフリカのある国で内乱が起きた。首都まで反乱軍がおしよせてきたとき、日本政府はそこまでの救援機は飛ばさなかった。アメリカはもちろん飛ばした。ロシアもだ。思いがけないことだが、トルコから救援機にもし日本人が希望するならどうぞ、という申し出があったとか。

日本は、隣国へ避難、そしてそこから別のアフリカの国へチャーター機を飛ばした。自衛隊機ではない。日本の飛行機でもなかったそうだ。
日本から遠いからそれは仕方ないといえるけれど。

その救援機に乗った人には、あとから費用請求があると聞いた。
紛争国に住んでいたある宗教の関係者は、その費用を言われた時、乗ることを拒否したのだとか。

この費用負担は、せちがらいと思うのか、税金で負担されるのは不公平で、自費であるべきだ、と思うのか。

今回は、命からがらとまではいえないけれど、やっぱり不安は大きいから逃げ出したいだろう。それにもしかしたら、無料なのかもしれない。
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イギリス王室についてのいろいろ

去年末、フランスに行ったときのことである。ロワール河沿いのお城を訪問したときのことだっただろうか。フランスは結局、共和国のままで、王政復古も帝政復古もならなかった、という話題になった。
帝政復古は、ナポレオンⅢ世による第二帝政までいったけれど、あとが続かなかった。
なら、ブルボンあるいはオルレアンの王朝が戻るかというと、そうはならなかったのはなぜか、などと歴史が話題になった。

その時、ヨーロッパの王室のほとんどが、ナポレオンではなく、ナポレオンの最初の妻ジョゼフーヌの息子(ウージェーヌ)の娘と、ナポレオンの婚約者(婚約破棄に終わったけれど)デジレ・クラリーの息子の結婚による血統で占められている、って知っている?と話したのだが、そこまで知っている人はいなくて、外国人のくせによく知っているものだ、とトレビア的評価を得たものだ。

さて、イギリス王室について、今回新しい知識をものにした。

senior memberという言葉がでてきた。日本語では高位王族と訳されている。意するところは、王位継承順位が上位で、様々な特権を享受しながら、義務にも縛られる、とのことだ。
今回の騒ぎの源、ヘンリー王子は王位継承順位が6位であるから、シニアメンバーに属するのだという。
それならば、ジュニアメンバーという言い方もあるのだろうか。あるとすれば、女王からどこまで遠ざかるとジュニアに分類されるのだろうか。
ヘンリー王子の息子アーチ―君は、何の肩書もつけないそうだ。とすれば、アーチ―君、さしずめジュニアメンバーとなるのだろうか。

そういえば、チャールズ王太子(以前は皇太子と日本で呼んでいたけれど、イギリスは王室であって、皇室ではないから、今回から王太子と呼ぶことにする、とメディアが言っていた)の現夫人、カミラさんには、王太子妃の称号を使わせない、といった条件が結婚の際に決められたような。
彼女はコンウォール侯爵夫人の称号を持っているはずだ。

今度の騒動時、ヘンリー王子は公費で5%、残り95%は父チャールズ王太子からの援助で生活費を賄っているという話だったが、なぜ、チャールズ王太子はそんなにお金を持っているのだろう。
かれは広大な不動産を所有して、その土地からの収益がすごい、という報道だが、彼が自力で稼ぎ出したものではないだろう。やっぱり女王から受け継いだものなのだろうか。

こういうところに、イギリスの(絶対)君主制の名残を見るのだ。ダイアナ妃の実家、スペンサー伯爵家も広大な領地と財産を所有しているというが、貴族にはそれなりの財産上の保護があるのだろうか。

そういえば、カナダで休暇を過ごしたときの家は、10億円ともいわれる建物で、ロシア人の所有った、などと報道されたが、今回は借りているのだとか。それも賃料は無しだという。そんなうまい話しは王族だからこそ得られるものと、サセックス公爵夫妻は思わないのだろうか。

メガンかメーガンか、TBSはメガンと呼んでいる。ほかの放送局はメーガンだ。Meghanはどう読むのだろうか。

この二人の婚約発表の時、悪いけれど、女王の次男アンドリュー(現ヨーク公)の結婚を思い出した。離婚にいたった夫人は、ちょっと釣り合わない、王室というカラーではない女性だった。彼女は離婚後ではあるが、詐欺事件まで起こしている。
ヨーク公にしても、今回、別のスキャンダルで公務から退かざるを得なくなっている。

イギリス王室は、問題いっぱい。こうしてみると、日本の皇室は、問題という問題ではなくなってくる。皇室メンバーへの内廷費などかわいい金額だ。
Brexitの次はMexit、イギリスについてはまだまだいろいろ知ることが多い。
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レオナルド・ダ・ヴィンチ、今生きていれば

昨年のクリスマス、パリに行ったとき、ソローニュの別荘(自分の別荘ではありません)から、ロワール河沿いのアンボワーズ城を訪れた。
このお城はレオナルドダヴィンチゆかりの場所として知られている。

1516年、フランス国王フランソワ1世に招聘され、64歳のレオナルドがこの城に来たのだ。
それから亡くなるまで、この地にとどまったという。
彼はこのお城のなかに葬られたけれど、滞在中は、アンボワーズ城からほど近いシャトー・デュ・クロ・リュセ(Chateau du Clos Luce)で生活していた。

シャトーと呼ぶにはこじんまりした館は、あらゆる場所にレオナルドのあとが残っている。
圧巻は地下にある彼の研究成果の展示室だ。

何があるか、を明細に記すことは、科学音痴の私にはできない。
そこで思ったことは、今の世の中に彼が生きていれば、この情報社会をどう生きていくのだろう、ということだ。
それこそ、機器の扱いも、情報処理も簡単に覚え、また先端を行くのだろう。
その時代ですら、多言語に応じられていたのだから、今のグローバル時代といっても、乗り切ることはたやすいだろう。

おそらくはダヴィンチ賞なるものが創設されたに違いない。その賞の授与条件には、科学的知識+絵画の才能というのがつけられるのか、などと考える。

当時の民事・軍事のエンジニアであったから、今なら宇宙の相手で、火星でも月でも、筆頭で乗り込むこともしたのだろうな、と想像の範囲は拡大する。

彼の研究の成果をたどりながら、中世の知恵にもついていけない21世紀を生きる人間の自分を自覚したのである。
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新しき年の初めの初春の

「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや頻け吉事」は万葉集にある大友家持の歌である。
これを始めて知ったのは、もう40年も前のことになるだろう。当時、岩波書店の出版案内書「波」(月刊、無料)を受け取っていた。
その表紙の裏側のページに、和歌や俳句、詩などが書かれ、その解説が載っていた。

当時、短歌の結社に所属し、また書も習っていたので、この歌にはまった。年賀状に書くのになんとぴったりの歌だろう、というわけだ。
早速、書の先生に手本を書いていただき、その翌年は年賀状をこの歌で決めた。

百人一首のほかに空で言える、数少ない歌の一つである。
この歌を先週の水曜日、朝日新聞のなかに見つけた。
ピーター・マクミラン氏が詩歌翻遊という、詩や和歌を英語に翻訳して、翻訳の意や歌そのものの解説をしている記事だ。

待ってました!と喝采なのだが、疑問がいくつか残った。
英語については疑問もなにもない。原文についてである。
万葉集の原本を確認していないのだが、マクミラン氏は歌の最後の部分「いやしけよごと」のなかの「しけ」に「頻け」としている。
私は今までこの漢字をあてたのをみたことがない。「重け」とあてたのはみた。
「よごと=吉事」が重なって起きるように、ということで「重け」と書くのに疑問はなく、そのままに書いていた。

「頻け」を使ったのを見るのは初めてだ。マクミラン氏の記事には「頻く」は絶え間なく起こる、という意味があるとのこと。それに雪が降り敷く、を重ねて使っているのだという。
原文がどうなのかを見ればいいのだが、あいにく万葉集を持っていない。

次なる疑問:それは「年の初めの初春の」とあるのは、元日が立春日とも重なる格別の吉日であった、と書かれていることだ。
立春は2月初め、うるうの暦の場合はそういうことも起きるのだろうか。しかし、そんな先例を聞いたことがない。
それにこの歌の解説書で、こういう解説は初めて見る。

私は、「新しき」「年の初めの」「初春の」と3回同じような表現が重なるのも、歌の手法としての重なり、と解釈し、これだけ重ねて「吉事」に結んでいるのだ、と思っていた。
これだけ重なっても決して嫌みにならず、ごろの良さにすっかりほれ込んで暗記したのだ。

英語でみてみると、最初の部分は、On this New Year's Day whichi falls on the first day of spring,とあり、こうしてみると、元日が立春と重なっていると訳されている。

いづれにしてもおめでたさが重なって、この一年が期待にあふれるし、雪も歓迎という気分になる。歌を暗記するのに40年かかっているが、この英語訳、今年中に覚えられるだろうか。
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フランス、こんなこと(3)運転免許証

今回のフランス行きは、期間限定(これはいつものことだが)、交通機関がストライキ中、などの要因もあって、移動が少なかった。
パリの外に出かけたのは、ソローニュの別荘行き、それに墓参りだけである。
いづれも甥の運転する車で出かけた。

ソローニュに滞在中、ロワール川流域にあるアンボワーズ城を訪ねた帰りである。甥があ、しまった!と舌打ちをした。とても礼儀正しい甥だから、舌打ちをするという不作法が意外であった。
どうしたの?と聞けば、速度違反をしてしまった、という。先ほど、ぴかっと光ったのがコントロールする機械が違反をチェックしたのだ。
速度制限80キロのところを90キロ出していたのだ。

この80キロ道路は、以前は90キロだったところが多い。交通安全のため、80キロに制限速度を落としたのだが、不評きわまりなく、結局、2020年1月2日の法律で90キロに戻される道路が多いのだが、まだ80キロが生きている。

違反の罰としては、罰金とポイント1が減点となるのだとか。
持ち点は最初は12、彼はもう数ポイントを失っているのだとか。

なぐさめにはならないが、もしもの場合、私も免許証を持っているから、私が運転できるけど、というと、それは力強いと、あくまで紳士的な反応だ。

私の免許証は、マルセイユに住んでいたときにとった。当時はエックスの学校に通ったり、近郊の町を訪ねたり、相当距離を運転していた。
最後にフランスで運転したのは、日本に戻ったあと、今は亡きつれあいと、数回ノスタルジーの旅行をした。南仏はレンタカーなしでは動けない。
日本ではオートマチック、フランスではマニュアル車がほとんどで、操作に気を使いつつ、右側通行に感覚が戻らないまま、ハラハラドキドキの運転をしたものだ。

今でも持っている免許証、フランスの場合はa vie、つまり死ぬまで有効なのだ。
例えば免許がとれる年齢に貼った写真は、90歳以上になっても有効なのだ。

という原則はまだ残っているらしいけれど、さすがに制度は変わっていた。彼の免許証をみせてもらうと、エレクトロニックになっている。チップも組み込まれ、ちゃんと現代に即応した形だ。
有効期間は15年、チップにはすべての情報が入っているという。

ならば、私の免許証はもう無効なのか、もうレンタカーも借りられないのか、身分証明書としての効力はないのか?と問うと、それはないと思うけど、という。たしかなことはわからない。

フランスでは返納はしない。1昨年96歳で亡くなった代父は、92歳くらいまで運転していた。パリの空港まで迎えにきてくれていたときのショックを覚えている。どこに駐車していたか記憶が定かでなく、分岐点では道路の真ん中に止めて、どっちの方向にいくのか?と聞かれたり、もう恐怖の運転だったが、本人は危険運転と自覚していなかった。
娘が強引に車を処分、本人は車があれば、ブルターニュの別荘に連れて行けるのに、などと私に言っていたものだが、車がなくなってほっとした。

甥の車はBMWのオートマティック、甥の妻はフランス車でマニュアルだ。日本では座席が高くなって乗降がしやすいのだが、フランスはまだ低い位置にある。どっこらしょ、と乗り降りに声がでる。
甥はパリでは住まいの近所にある有料パーキングを利用している。ここはキーを預けて駐車を依頼するスタイル、妻は路上駐車、パリ中心地の駐車状況は厳しい。

フランスでもう運転することはないだろうが、大切に持ち続けているピンクの免許証、もう不要なのかもしれない。
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綿棒は使わないで(2)

亡きつれあいの病気との関連を問うと、血液の病気だから、もしとてもご心配ということなら、血液検査をしてみますが、と一応は言ってくださる。

そうか、私の思い込み的症状なのか、と血液検査は辞退する。

そして、時間は過ぎたけれど、ぺこぺこにすいたお腹をかかえて、いつものレストランへと移動する。そこではおひとり様の食事で、店に備わった週刊誌を読むことにしている。
ある女性タレントのエッセーを読んだ。そこに女子トークとして、ホテルの備え付け綿棒での悲劇があった。
その女性、ホテルに備え付けの綿棒で耳掃除をしたところ、先っぽの部分が耳に残ったまま棒が抜けてしまった、というのだ。

棒が抜けてしまうと、もちろん、先っちょをとる方法はない。いやー、その状況の難しさは理解できる。
女子トークの結論は、ホテルに供えてある綿棒、シャンプー、歯ブラシ、品質がわからないから、使うべきではない。日ごろ使っている愛用品を持参すべき、というものであった。

日ごろ使ている愛用品といっても、綿棒の場合、100円ショップのものではないけれど、結構安価なものを使っている。抜ける可能性か、と心配になってきた。

お医者様は、綿棒や耳かきは使わないで、肌にクリームを塗るように、耳の中に油分を与えましょう、とアドヴァイスで、塗り薬の処方であった。
一つ利口になったのか、また加齢化現象が増えたのか、どちらともいえる。
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綿棒は使わないで

昨年後半から耳の具合がよくない。左耳の下になにかしこりがあるような、それが聴力にも影響しているのか、テレビなどが聞きづらくなっている。

しこりは時には大きく感じるし、時にはあれっ、消えたかな?と思うこともある。
しかし、昨年末のフランスではちょっと痛みも無視できない状態になったし、今日は心を決めて耳鼻咽喉科にかかることにした。

耳下のシコリについて神経質になるのは、亡き夫もそれで病気がスタートしたことによる。彼の場合、耳下ではなくアゴのリンパ腺だったかもしれないが、なにかシコリができて、それから次々に病気が増えていったという経緯がある。
結局、病気がわかったときはまだ難病指定にはなっていなかったが、その後しばらくして、新しい難病となったのだ。

そんな経緯から、もしかして同病なのかな?と思ったり、夫婦で同じ病気、それも難病とは珍しいのかも、これは村の風土病なのかな?村にそんな風土病があるとは聞いていないから、この別荘地限定なのかな?などと、私の空想力は限度がない。

1時間まって診察、先生は私が示す箇所をさわってみて、しこりっていうもんじゃないな、と言われる。腫れでもないし、と全くの否定形連発だ。
耳の中をカメラでみて、いや、耳の中が荒れている、いじりすぎだよ、綿棒使ってる?と言われる。

綿棒は使っている。毎日ではないが、洗髪するたびに、耳の中に残った水分をとったり、耳垢を除くためにも、念入りに使う。

それがよくないのです。この頃、耳鼻科では、あまり綿棒は使うな、と勧めているところでね、とのこと。特に高齢者は、耳の中の肌が油分がなくなり、かさついているところに綿棒で強くこするから炎症がおきやすいのだそうだ。
私の痛みも、このあれから耳下のなんとかという神経?が炎症をおこしている可能性があるという。


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映画「半地下家族」は面白い

東京ーパリ間、往路13時間、復路12時間、この長い飛行時間を慰めてくれるのは、機内での映画だ。
時々、まだ上映させていない映画に出会ったり、外国映画の面白いものが見られたりで、そんな映画に出会うと、飛行時間のほとんどを映画鑑賞にあてることもある。

ただ、この頃は目の疲れがはなはだしく、暗い機内の画面に集中するのがいやで、あまり見なくなった。
今回、邦画に心惹かれるものがなく、外国映画を探したのだが、目についたのが韓国映画の「半地下家族」だ。
どこかの大きな映画祭のグランプリを受賞したという説明もある。

面白かった。これが韓国の現実なのかどうかはわからないけれど、どんなに脚色しても、その国の姿を表現しているのは否めない。
そんなことあるの?というような展開で、それも展開のテンポが速く、画面に見入ってしまう。

ところが今回、とても残念なことをした。最後のシーン、息子の誕生日を祝うガーデンパーティでなんとも思いがけない展開になるのだが、そこでトイレに行ってしまったのだ。ここまで劇的な展開であれば、あとはもう終わるのだろう、見切ってしまったのだが、そこで終わっていなかったようだ。
トイレから戻った時、ようやくエンドロールが流れていた。

まいった。もう一度見るにしてもいいのだが、とても長いし、それを早送りするというのも気がすすまない。

復路で見ればよかったのだが、とても疲れがひどく、画面を開くこともしなかった。

というわけで、不完全燃焼の気分のままのところで、今度、日本で公開されていることを知った。

あの最期をみるために、映画館にいくかどうか、迷っている。もし、見たいと思っている方にはお勧めの一作だ。
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二つのお墓参り

お墓参りはなんのためにするのだろう。
この頃、つくづく思う問題である。

年末(クリスマスのころ)と年始(年があらたまって)と、2回のお墓参りをした。
年末はフランスで、年始は東京でである。

パリ滞在最後の日、甥が出発は午後だし、午前中にパリ郊外にある亡き代父のお墓詣りにいかないか?と誘ってくれた。
思いがけない誘いだ。金曜日の午前中、パリ郊外への道路状況など、私はわからない。可能ならば是非いきたい、と応じる。
近郊というより、もう少し遠い距離にある。そこで代父は学齢期をすごしている。代父の母と代父、代母が眠っている。

いわゆる町営墓地だ。パリのペーラシェーズやモンマルトル墓地のような規模でも華やかさ?もないふつうの墓地だ。しかし、一人だけとびっきりの有名人の墓がある。それはフランス国歌ラ・マルセイエーズを作曲したRouget de Lisleの墓である。
ほとんどの墓は、日本とちがい、高く、というより平べったい。

甥と私の二人、結局、17年の3月に代父の埋葬以来、初めての訪問である。
花もなにも持っていない。代父は、自分の葬儀について、ni couronne, ni fleuresとなにも飾らないで、と指示していた。教会でのミサ、そして納骨、本当に最小限の飾りで送ったのだ。
その時、姪たちとはこれではさみしすぎる、我々の気持ちの持って行き場がない、と言っていたが、あとで、代父のきっぱりとした潔さが強く残った。

甥は彼にとっては叔父のその気持ちをよく理解していた。だから彼も私も、供花を求めよう、などと口に出さない。
代父は火葬だった。それもフランス人にとって、特にカトリックの信者のなかでは異例のことなのだが、甥はそれも受け入れている。
祈りのことばも出さない。ただ二人で、ほんの数分間、沈黙のままに首をさげているだけだ。
言葉ではない、”帰る?”という雰囲気で墓前を離れる。

甥はあまり墓参りをしないそうだ。自分の両親の墓にもお参りしていないな、と言っていた。
冷たい人では決してない。今回の招待も彼が言い出したものだ。

今になって思う。彼はもしかしたら、叔父に対して、特別の思いを持っているのではないだろうか。彼の父親が亡くなったあと、学費などで、親身な援助をしてくれた叔父に、生前にできなかったお礼にと、私を招待し、墓参を言い出したのではないかと。

そして年改まり、東京へといった。東京都心に亡き夫の墓がある。お寺さんの墓地だ。
3回忌以来、お墓に行っただろうか。なんだか記憶がない。
フランスで代父のお墓に参って、そうだ、夫のお墓にもいこう、という気持ちになった。
ただ、気持ちの上ではちょっと複雑だ。そのお墓の中には、夫の前の妻、そしてその先祖の遺骨も収められている。
月命日にはお墓参りをする、という知人は、お墓参りが楽しみだという。
私にとっては心乱れる場所になっている。

あまり来ないが故か、地下鉄の駅からお寺さんへの道がわからなくなった。工事が多く、駅周辺の景色が変わっていた。それにもしかすると、ボケが始まったのかもしれない。(あるいは行きたくない気持ちが作用したのか?)
フランスでと同様、花もお線香もなしだ。お線香はお寺さんで買えるけれど、それもしない。

さんざ迷って、どうにかたどり着いた。友人の一人は、きっと待っていらしたわよ、というが、あの世で前妻と会い、はたして後妻を待っているものだろうか、とあくまで懐疑的だ。
お正月に義娘たちがお供えしたのだろう、とてもかわいい、明るい花が供えられている。

代父の墓前でもそうだったが、今更、何を口にするのか、この場では情緒的にならない。無言のまま、墓をみつめ、その後ろの卒塔婆を読み、それで終了だ。

「千の風にのって」という歌がある。この歌が流行して、とても言い訳しやすくなった。
墓参りをしないからといって、何も思い出さないわけではない。自宅では夫の思いでがいたるところにある。
それでもお墓参り、なにかいかなければという義務感が残る。

亡代父の墓参は最後になるものかも。さて、亡き夫の墓参は?


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