SSブログ

フランス、こんなこと(1)

今回のフランス行きは、クリスマスを知人宅で過ごすことがメイン目的であった。
けれども、それプラス、クリスマスの本来の意味、生誕祭を祝うため、教会のミサに与ることもある。

クリスマスの家庭行事は、24日イヴは家庭での会食だ。今回は少人数だったが、いつもであれば、もっといろんな人を招いている。だから、深夜ミサ、だいたい9時ごろ始まるが、これにはあずかれない。
クリスマス当日のミサは、朝と夕がある。朝は9時とか10時、夕ミサは午後7時などだ。これは教会によって違うから要チェックだが。
当日の家庭の予定としては1時くらいからの昼食会がある。12時すぎるとぼちぼちと客が現れるから外出するわけにはいかない。

ということで、知人は私に25日の夕ミサへ行こうと提案してきた。歩いていけるサン・ジェルマン・デ・プレ教会ではどうか?と聞く。
私に異論はない。ノートルダムが火事にあって、もしパリ代表ということになれば、サクレクールとかマドレーヌなどが有名だろうが、交通の便がない今、至近のサンジェルマンも著名だし、どんなミサなのかみてみたい、と思う。

有名教会の一つだし、きっと大勢の信者が集まるだろうと、席を確保するために少し早目に行く。
7時前15分というところなのだが、ほとんど人はいない。もしかしたらミサはないのかも、と思うほどだ。
なんのデコレーションもない。普段通りの聖壇のつくりである。
ただ、この教会の売りの一つ、パイプオルガンが大きな音で演奏している。

入り口で配られているミサの式次第も、白黒の簡単なもの、華やかさなどみじんもない。
まず、聖壇の前などにふつうなら飾られている、生誕の場がない。この教会では、回廊にあるマリア像のところに極シンプルなクレーシュがおいてあるだけだ。

2年前のクリスマスでは、ノートルダム、フランシスコ・ザビエル教会、などいくつかの教会をみてまわったけれど、大がかりなクレーシュが飾ってあった。

ミサの時間になると、さすがにいくらかの人が集まった。
私たちの席の前には、中国人とおぼしい若い女性が2人、席を占めた。一人は毛皮のコートを羽織って、なかなかお金持ち風でもある。

神父様は一人で現れた。本当に一人きりで、侍史はだれもいない。ひょいひょい急ぎ足で聖壇にあがられる。
同時にパイプオルガンが大きな音を出して響く。人が音を吸収できるほどいないからか、やたら大きい。

こんなことを書けば、一種の偏見になるのだろうが、外国人だ。同伴者はその発音からマダガスカル人ではないか?とあとで言っていた。
そもそもがフランス語でのミサは数年ぶり、定型のお祈りも、お説教も聞き取れない。

前の席の中国人女性、立ったり座ったりはほかの人と同調できるのだが、どうも信者ではなさそうだ。
主の祈りのあと、周囲の人とキリストの愛をわかちあう。親しければハグをしあい、親しくなければ握手や会釈、となる。
彼女らは何もしない。そしてだれも彼女らに分かち合いをしない。
私は後ろからちょっと肩をつついた。一人が振り返る。ハグはしないけれど、すこし気持ちのこもった握手をした。隣にいるともも彼女らに親しみのこもった挨拶を交わす。

きっと彼女らはパリのクリスマスを楽しみに滞在しているのだろう。たまたまこの教会を、きっと有名だから感動深いクリスマスミサであろう、と期待してきたに違いない。

ミサの終わりは、クリスマス聖歌のIl est ne le divin enfantで締めくくりだ。
カトリックのミサはどうしてもっと知られている讃美歌を歌わないのかしら?といつも思う。

彼女ら、きっとがっかりしているわね、と自分の気持ちを彼女らに代弁させていう。
知人もがっかりしたミサだったね、と同感している。
そもそも彼は洗礼は受けているものの、プラティカン(きちんと教会に通う人)ではないとのこと。いろいろ考えるところがあるのだそうだ。

外国人神父が悪いというのではないが、フランス人の神父はとても数が少ないという。召命というけれど、神の教えに進もうという人は本当に少なくなったとのこと。
魅力がないのね、といいつつ、こういうミサの在り方では、信者の興味・関心も呼べないだろうし、教えがわからなければ、教理に惹かれることもない。

結局、私に付き合ってくれたのだが、帰宅して、変に宗教談義というのか、カトリックへの思いを話し合ったのだった。
nice!(0)  コメント(0)