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二つのお墓参り

お墓参りはなんのためにするのだろう。
この頃、つくづく思う問題である。

年末(クリスマスのころ)と年始(年があらたまって)と、2回のお墓参りをした。
年末はフランスで、年始は東京でである。

パリ滞在最後の日、甥が出発は午後だし、午前中にパリ郊外にある亡き代父のお墓詣りにいかないか?と誘ってくれた。
思いがけない誘いだ。金曜日の午前中、パリ郊外への道路状況など、私はわからない。可能ならば是非いきたい、と応じる。
近郊というより、もう少し遠い距離にある。そこで代父は学齢期をすごしている。代父の母と代父、代母が眠っている。

いわゆる町営墓地だ。パリのペーラシェーズやモンマルトル墓地のような規模でも華やかさ?もないふつうの墓地だ。しかし、一人だけとびっきりの有名人の墓がある。それはフランス国歌ラ・マルセイエーズを作曲したRouget de Lisleの墓である。
ほとんどの墓は、日本とちがい、高く、というより平べったい。

甥と私の二人、結局、17年の3月に代父の埋葬以来、初めての訪問である。
花もなにも持っていない。代父は、自分の葬儀について、ni couronne, ni fleuresとなにも飾らないで、と指示していた。教会でのミサ、そして納骨、本当に最小限の飾りで送ったのだ。
その時、姪たちとはこれではさみしすぎる、我々の気持ちの持って行き場がない、と言っていたが、あとで、代父のきっぱりとした潔さが強く残った。

甥は彼にとっては叔父のその気持ちをよく理解していた。だから彼も私も、供花を求めよう、などと口に出さない。
代父は火葬だった。それもフランス人にとって、特にカトリックの信者のなかでは異例のことなのだが、甥はそれも受け入れている。
祈りのことばも出さない。ただ二人で、ほんの数分間、沈黙のままに首をさげているだけだ。
言葉ではない、”帰る?”という雰囲気で墓前を離れる。

甥はあまり墓参りをしないそうだ。自分の両親の墓にもお参りしていないな、と言っていた。
冷たい人では決してない。今回の招待も彼が言い出したものだ。

今になって思う。彼はもしかしたら、叔父に対して、特別の思いを持っているのではないだろうか。彼の父親が亡くなったあと、学費などで、親身な援助をしてくれた叔父に、生前にできなかったお礼にと、私を招待し、墓参を言い出したのではないかと。

そして年改まり、東京へといった。東京都心に亡き夫の墓がある。お寺さんの墓地だ。
3回忌以来、お墓に行っただろうか。なんだか記憶がない。
フランスで代父のお墓に参って、そうだ、夫のお墓にもいこう、という気持ちになった。
ただ、気持ちの上ではちょっと複雑だ。そのお墓の中には、夫の前の妻、そしてその先祖の遺骨も収められている。
月命日にはお墓参りをする、という知人は、お墓参りが楽しみだという。
私にとっては心乱れる場所になっている。

あまり来ないが故か、地下鉄の駅からお寺さんへの道がわからなくなった。工事が多く、駅周辺の景色が変わっていた。それにもしかすると、ボケが始まったのかもしれない。(あるいは行きたくない気持ちが作用したのか?)
フランスでと同様、花もお線香もなしだ。お線香はお寺さんで買えるけれど、それもしない。

さんざ迷って、どうにかたどり着いた。友人の一人は、きっと待っていらしたわよ、というが、あの世で前妻と会い、はたして後妻を待っているものだろうか、とあくまで懐疑的だ。
お正月に義娘たちがお供えしたのだろう、とてもかわいい、明るい花が供えられている。

代父の墓前でもそうだったが、今更、何を口にするのか、この場では情緒的にならない。無言のまま、墓をみつめ、その後ろの卒塔婆を読み、それで終了だ。

「千の風にのって」という歌がある。この歌が流行して、とても言い訳しやすくなった。
墓参りをしないからといって、何も思い出さないわけではない。自宅では夫の思いでがいたるところにある。
それでもお墓参り、なにかいかなければという義務感が残る。

亡代父の墓参は最後になるものかも。さて、亡き夫の墓参は?


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