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「ビルマの竪琴」についてわかったこと(5)

「ビルマの竪琴」にどうしてこんなにこだわるのだろう。
そもそもは、その中で歌われた歌が「ふるさと」か「埴生の宿」の思い込みから始まったことなのだが、もう一つ、水島上等兵のモデルになった、という人物がいる、と知ったことにもよる。

その人物については、日本で購入したガイドブックに、「ヤンゴン日本人墓地」という項目があり、そこに”「ビルマの竪琴」の水島上等兵のモデルとされ、2008年に亡くなった中村一雄さんの記念碑もある。”という説明を読んだこともある。

中村一雄という名前、2008年に亡くなられていること、日本人墓地にあるのは記念碑であること、が書かれているのだが、思い込みの強い私は、名前も2008年に亡くなられたことも、墓地を訪れて初めて知ったのである。

映画を見ると、収容所での別れのシーンが強烈な印象を残している。「おーい水島、一緒に日本に帰ろう」という仲間の呼びかけ、あるいは、水島の肩にとまっているインコが「オーイ、ミズシマ、イッショニカエロウ」と繰り返し言う場面は目の裏に焼き付いている(いくらかの思い込みもあるが)。

僧の姿で、去っていく水島、あのシーンを見ると、水島上等兵はそのままビルマに残り、野に山に、放置された日本人兵の埋葬や供養に務めた、と思い込む人は多いだろう。

ガイドさんが教えてくれた、墓碑と信じていた石碑の文字をみて、ショックを受けた。
「ビルマの竪琴」の主人公・水島上等兵のモデルと言われていた、本名 中村一雄
 2008年12月17日没 享年93歳

えっ!10年前くらいまでご存命だったの?93歳なんてすごい長寿じゃない、ビルマのどこで亡くなられたの?

と疑問がわく。

それらの記載の前には、大きく祈 世界平和、とあって、高田歩兵第58連隊、 連隊 本部
曹長 武者 一雄  曹洞宗雲昌寺 云々、がある。
これらの記載の意味がわからなかった。

いろいろ調べたので、今ならわかるけれど。

水島上等兵は竹山氏の創作した人物、かたや中村氏は、ごく一部がモデルかもしれないと思われる人物なのだ。
どこがモデルといわれるのか?それはうたう部隊に所属していたこと、そして僧侶であったこと、の2点があげられる。(続く)

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