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身の丈ということば

「身の丈」発言が問題、ということを聞き知ったとき、その内容を知らなかったので、「身の丈」という言葉が否定的に扱われているのに、ちょっと違和感を感じた。
というのも、身の丈ということばは気に入っていて、今や、それこそ身の丈にあった生活を、と心掛けているところだからだ。

しかし、話題の発言をフォローすると、決して肯定的なものではなく、どちらかといえば、身の程にあった、と表現を変えてもいいような内容だった。

仕事をやめ、収入も年金だけの生活にはいったとき、なかなかに現役時代の生活を忘れられず、キョーイク、キョウヨウがなくて、それがつまらなくて、悪あがきをして、消耗することばかりで、充実感のない日々を送っていた。
しかし、今は、その「身の丈」を知った生活モデルがようやくできて、少しは心惹かれても、支出が大きなことには参加しない、不要なものを買わない(以前は、いつか役に立つだろうとやたら買ったものだ)、なるべく外出を控え、自宅での生活を充実させる、となった。

広辞苑で調べると、「身の丈」は身の高さ、背丈、身長、とあり、「身の程」は身分、分際、身分相応、とある。
萩生田大臣は、むしろ「身の程」と言われるべきであった。

若いときは、身の程を知りなさい、などと言われると猛反発したものだ。まだ女だから、といった発言も簡単に出てくる時代であったため、身の程を打ち破ってみせる、という気概もあった。
だから、今回の萩生田大臣の発言には猛烈に反発を感じた。残念なことに、いつもよく視聴するBSフジの番組での発言であったということだが、その日の放送は見ていなかった。

大学受験とはもう縁もなく、制度としても関心も持っていなかったけれど、英語の試験のやり方は、不公平さをいくつも持っている。

コンサルタント的な仕事をしていたとき、高校生をかかえる母親から、高校授業料無償化のことで言われたことを思い出す。彼女は貧困がゆえに、高校生の子どもの授業料は免除されていた。すべての高校生が免除されるのはいいことですね、と言うと、かえって不公平さが増します、余裕がなくて塾に通わせられなかった家庭も通わせられるようになるし、最貧困との差がまたでてくるんです、という。

今の世、塾通いはもう常識となっているのだとか。大学まで進学を考えたとき、塾に通っていない生徒のハンディキャップは大きいという。
昔は塾なんてなかったのに、という「昔は」とか、今回の萩生田大臣のように「身の丈」つまりは親の経済力に相応した形で受験勉強を、というのは酷なことだ。

世の中、平等でも、公平でもないことは、社会人になればわかるけれど、学問の公平さは維持していくべきだ。給付型の奨学金を増やすとか、問題は限りなくある。

この英語民間試験の見送りがどういう結果を受験生にもたらすのか、身の丈にこだわらず、勉強に励み、成果を得るように、頑張れよ、受験者諸君!
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