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紅葉の頃、すばらしい秋の夕暮れ

今日の夕暮れはなんと素晴らしかったことだろう。4時ごろ外出から戻り、車を降りて、周囲を眺めると、息をのむような景色だった。

大きな木に囲まれて、日没は早い。その直前の、夕日が最後の力を振り絞って照り輝く刻だった。

定家の歌を思い出した。「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ」だ。
花はないけれど、紅葉は盛りよ(実際は盛りを過ぎているが)、と定家に話しかける。浦ではないし、山の中だから、紅葉はあって当然だし、「見渡せば花はなけれど紅葉あり、山のとまやの秋の夕暮れ」というところかしら、などと勝手に歌をかえてしまう。

紅葉は夕方はさみしい。午前中の太陽が一番輝くころがやっぱりきれいさが際立つ。だから散歩は午前中に、と心掛けているが、今日は用事が多くて、4時からの散歩となった。
いつもとコースを変えると、太陽光線も角度が変わって、紅葉の輝きも変化する。

夕食時に朝刊を開いた。偶然、ピーター・マクミラン氏の詩歌翻遊の掲載日で(朝日新聞)、今日の歌は小倉百人一首の70番、良遷法師の「さびしさに宿をたちいでて眺むれば いづこも同じ秋の夕暮れ」であった。

確か百人一首には別の「秋の夕暮れ」があったはず、定家の「浦のとまやの秋の夕暮れ」だったかしらと、解説書を見るがみつからない。
寂蓮法師の「村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮れ」だった。これは秋の夕暮れより、むすめふさほせ、の村雨で覚えていた。

三夕の「秋の夕暮れ」には、百人一首ははいっていないのだ、などと昔の記憶を呼び起こす。

しかし、今日の「秋の夕暮れ」は心にしみた。
この土地をはなれられないわけだ。
ベランダで夕暮れを味わっていると、日中、エサに与かれなかった野鳥が、エサを求めてきた。
冬支度をしているのか、さえずりが鋭くなった秋の鳥たちを詠んだ歌はなさそうだ。
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