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ルアンプラバンの托鉢

古都ルアンプラバンの売り物といっては語弊があるけれど、早朝の僧侶の托鉢が有名だ。
この町を紹介する映像には必ずでてくる。

村上春樹の「ラオスにいったい何があるというんですか?」にも、この托鉢が紹介されており、かつ高い評価をされていた。

さて、老女2人、もう相当、人生の悪業も重ねて、後世についての望みももちかねている。友人は簡単に最初に言った。昨年、ミャンマーで托鉢への寄進はしたから、もうここではいいです、と。

私はミャンマー旅行に行っていない。ルアンプラバンに来る前、ヴィエンチャンに滞在中、そこの友人が、当地でも托鉢はされていますから、もしご覧になるとか、寄進をされたいのでしたら、カオ・ニャオ(もち米)をご用意いたします、と親切に言ってくれた。怠け者の老女は、ここではいいです。ルアンプラバンで3泊ありますから、そこで参加することにしますと。

なんせ早起きをしなければいけないというのが大のネックなのだ。まず第一夜があけて、その朝、早朝に騒音が聞こえる。まだ早い!とベッドのなかで文句をつけている。
ああ、そうだった、お坊さんの托鉢があったのだ、と気づいて、その昼、ホテルのフロントで何時に起きればいいのかきいてみる。5時半で大丈夫ですよ、とのこと。

5時半、睡眠障害で、朝方に眠っている身にはちょっと辛い時間だ。よし、明日がだめなら明後日、2日あればどうにかなるだろう、もし2日ともダメでもいいじゃないの、と老女はこだわらない。

ところが、翌朝、4時すぎにがたがた物音がし始めるのに気づくと、もう寝ていられない。5時には表に出た。ホテルの前も托鉢僧は通るという。
道の真ん中には屋台の車があって、寄進のためのカオ・ニャオ(もち米)やなにが包まれているか知らないが粽になったもの、カップにはいったもの、と3種の籠が用意され、ワンセット5万キープだという。

まわりは観光客だけだ。本来、正座して僧侶を迎え、けっして彼らより目線が上になってはいけないらしいが、観光客には小さな椅子が用意されている。正座ができない私は当然のように座って待つ。

村上春樹は、「僧侶たちにもち米ごはんを「差し上げ」てみた。まあ、ほんの真似事のようなものなのだけど、それでも実際にやってみると、そこにある土着の力みたいなものを、その本物さを、不思議なくらい強く肌身に感じることになった」と書いている。

私は土着に人のなかにいなかったせいなのか、その力なるものを感じなかった。とても形骸化したものと思った。かれらの托鉢をする道具は、アルミのふたがかぶせられるようになっている。こちらのお供えがうまくタイミングがあわないと、その蓋を閉じている。

こんなに形式化したなかで、ほんの一握りのごはん、それは量的には集合して大変なものになるのだろうが、そうなったらそうなったところで、消費できるのだろうか。
人の手で、小さくまとめられたもち米ごはんは、はたして食べる気になるのだろうか。

私の隣に座った人は、もしかしたら土地の人だったのかもしれない。お米のかわりに小さい袋菓子用意していて、それを托鉢の容器にいれていた。

私はごはんのほかの粽やカップにはいったものを、若い僧たちに主としていれていたけれど、さて、最終的に自分のものは自分のもの、となるのだろうか、それは疑問である。

毎朝、こうして托鉢をするというのは、修行としてはいいのだろう。しかし、こうも観光化し、形骸化しているとなれば、修行の一端と言えるのだろうか。

昔、実家には禅宗のお寺から、若い僧が時折托鉢に寄っていた。玄関に鈴の音がして、扉を開けると、黒装束の、裸足の僧が杖を鳴らしている。奥にいる祖母に「お坊さんがきた」というと、茶菓子やお米、そしていくばくかのお金を差し出していた。そのお菓子は私が食べたかったのに、と思うこともしばしばだったが、祖母はかならず寄進していた。

あのシンプルな托鉢のほうが、私には納得できる。ルアンプラバンのオレンジ色の衣が派手というのではない。団体で托鉢をするとき、その表情に倦んだ気配を感じただけなのだ。
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