SSブログ

弾かないピアノ

今日は午後から温泉に行った。車中で丁度2時になったので、NHKFMをつける。クラシックカフェというお気に入りの番組が始まる。冒頭はモーツァルトのピアノソナタだ。何番かはわからない。「この曲は弾いたことがあるわ」と言うと、つれあいは「へーえ」と懐疑的な返事をする。

「自慢じゃないけど、モーツァルトのピアノソナタは全曲弾いたのよ」と言うと、「自慢しているんじゃないか。それなら帰って弾いてくれないか」とつれあいは皮肉っぽく言う。「弾いたことがあるということと、今弾けるかどうかは別問題なのよ」と教え諭す。「うちのピアノはお飾りだものね」とつれあいの皮肉は続く。

我が家にはグランドピアノがある。家を建てた時、今は亡き母がプレゼントしてくれたものだ。もう20年にもなる。この数年、ちっともピアノを弾かない。年に数回という程度になってしまった。「弾かないピアノをお譲りください」という新聞やテレビの広告をみると、すぐに連れ合いが「我が家のピアノをお譲りします」という。

とんでもない、と思うが、実際、弾かなくなったピアノは邪魔なものだ。以前はふたを開けていたが、この頃は、埃がはいるからと閉じたままで、その上にも、下にも、物がおかれて、物置状態になっている。
弾かないピアノなのに、年に1回は調律をお願いしている。高崎から出張していただき、グランドピアノだから、調律代も高い。1回弾くたびに500円コインをいれているのだが、数枚しかたまっていないから、とてもその代金にはなりえない。つれあいは、無駄の極地だというけれど、役に立たないプライドの一つで、調律を続けている。

どうして、こんなに弾かなくなったのか、聴かせる人がいないからである。東京にいたころは、レッスンを受け、発表会もあり、どうしてこんなに費用がかかるの?と言いながらも、1曲、1曲をあげることに必死で、練習もし、達成感も得られていた。ところが、本当に趣味だけになると、とんと弾く気になれないのである。

断・捨・離から言えば、弾かれないピアノは処分すべきなのだろう。しかし、だんだん母の形見がなくなっていくなか、手放すことはできない。しかし、たとえば、あと10年、20年、つれあいと私がこの世からおさらばするとき、この家にピアノがあるのはきっと邪魔になるだろう。ピアノの耐久年はどれほどのものかは知らないが、そんなときに、ピアノとしての価値があるのかどうかもわからない。

さあ、どうする?とつれあいは処分に乗り気だが、夏場にきてくれる友人たちとの合奏もピアノがあってこそ、しばらくは残しておくことに決定。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0