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つながったBS

3週間前から階下のテレビがBSとつながらなくなった。
もともと、天気やその日の気分があるのだろうか、BS1とBS4のつながりが悪かったのだが、突如全部見えなくなってしまった。

なにか時々そんなこともあって、時間を経れば写るようになったこともあったような記憶で、毎日、トライするのだが、アンテナとつながっていません、という告知が出るだけで、画面は黒い。

アンテナとつながっていないといっても、2階のテレビはちゃんとBSが写る。だからアンテナの問題でないだろう、とは思っていた。
しかしメカにはめっぽう弱い私としては、原因究明もできない。
いつかどうにかなるだろう、とどうしても見たいBS番組は、2階のテレビでみることにしていた。

それでも日中、階下であれば何かしながらテレビがみられるけれど、2階ではテレビに没頭となって、どうも時間がもったいない。

誰に直してもらえばいいのか、このテレビを購入したのは村の電気屋さんだけど、その電気屋さん、数年前に亡くなられて廃業となった。
コロナで回りに人はいない。本当にお手上げだ。

このままBSなしの生活をすべきか、と思っていたが、自粛緩和で友人ご夫妻が東京からみえた。この夫妻、そろってメカに強い。散歩の途中、こんにちわ、の挨拶の次に、実は、と事情説明だ。

早速テレビの裏をみて、即、解決だった。

こういう問題がいくつもたまっていく。電球とりかえ、電気製品、夏冬いれかえ、そういえば、大きな電気カーペットを洗ってしまう用事もあるけれど、これはシルバーさんにでも依頼するか、と考えている。
これはコロナのせいではない。
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Covid 19 (14)届かない航空便

アメリカ西海岸に住む友人から電話があった。
彼女は5月初旬が誕生日、例年バースデーカードを送っている。今年も送った。このコロナ騒ぎがあるから、10日から2週間早目に投函した。
郵便局では受け付け可能の地域ということで受け付けてくれた。

安心していたわけではない。
カードが届けば、お礼のメールがくる。それがこないのだ。
遅れているのかしら?郵便局がチェックして、送ってもいい地域ということだったのに、と不安にはなったけれど、なんだか彼女に問い合わせするのも、送ったわよ、と恩着せがましいような、と遠慮していた。もしかしたら、体調を崩して、お礼を言う気分でもないのかもしれない。

彼女は彼女で、お祝いカードをもらう立場として、出してくださった?と聞くのを遠慮していた。
しかし、もう何十年も続いているカードが今年は来ないことがやっぱり気になる、と確認の電話をかけてきたのだ。

人間を運ぶ航空機はほとんどなくなってしまっている現在だが、航空郵便物などの便は数は少ないにせよ飛んでいるのだろう、と思っていたが、そうでもないらしい。

4月半ばには、フランスの友人2人に、本を送った。ロックダウンの日々、家の中で本でも読んですごしてもらいたい、と人情ものの本を選んで送ったのだ。
最初はSAL便で送った(これは3月末)のだが、戻ってきた。
航空便なら受け付けています、という郵便局の説明に、慰問品なのだから、すこし送料が高くても、とがんばったのだ。
(ちなみに、戻ってきたSAL便の切手代は返還された)

航空便なのに、1カ月を過ぎた今も、友人たちから到着のメールがこない。
平常時なら郵便局に調査を依頼する。航空便で1カ月もかかるなんて、異常なのだ。
どこで滞留しているのだろう。

話によると、4月1日あたりから、国よっては郵便の受付が止められたらしい。
しかし、そういう事情も郵便局でチェックしてくれたはずだ。

人間のみならず、モノにもウィルスがついている、としても、1日、日光にさらせばウィルスは消滅するはずだ。

コロナウィルス、いつ収束するのか、そして郵便物が送れるようになるのはいつのことなのだろう。
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Covid-19 (13)特別定額給付金

昨日の夕刻、地元の友人が来た。車でちょっと顔を見に来た、というところを、ベランダでおしゃべりしましょう、とsocial distancingの空間をおいた椅子に座る。

やはり話題はコロナ、「いやー、困ったね」「いつ終わるかね」と表情は暗い。
お互い、寒い季節も風邪をひくこともなく乗り切ったけれど、やっぱり健康不安はもっている。
こんな田舎じゃ、コロナにかかったらいちころだね、でも、都会で忙しそうだから、こんな田舎にはこないだろうが、病院にも行けやしないね、と愚痴の種は決まっている。

われらが村では、すでに特別定額給付金は配られた。マスクはまだだが。
「大丈夫なのかね」と切り出される。「何が?」と聞くと、「このあとだよ」という。
つまり、国民全員に10万円を配るというのは、すごい金額になるはずだ、国庫にお金が余っているわけではない、補正予算とかなんとか言っても、結局お金があるわけじゃなし、国債とか借金だろう、結局はのちのち増税ってことだろう、と、きわめて常識的な発言である。

使い道の話題はよく出るけれど、その後の増税に気を使っての発言はあまり聞かない。

増税といっても、このコロナが終息するまでに、2回目、3回目の特別給付金もありうる、ってことだから、ずいぶん先のことになるんじゃない?と言うと、じゃあ、払わなくて済むかもな、という。つまり、そこまで生きていないだろう、という。
消費税があがるのかな?ガソリンにつくか、所得税か、と増税対象になりそうな税金をあげていく。あるいは年金カットだな?と暗い展望ばかりだ。

そうなのだ。この給付金が必要なことは理解できるけれど、財源のことや、その後始末については、今は考えなくていい、考えるのはあとで、という雰囲気だ。それでいいのだろうか。
世界中でこの国民への給付金が実施されていて、これほど、財政をゆるめたことはない、この始末はどうなるのだろう、という経済学者の懸念もたまに聞く。

それでどう使うの?使ったの?と問うと、自動車税に使ったよ、とのこと。群馬県は一家に一台ではない、一人に一台の所有率だ。彼の家は、夫婦それぞれプラス軽トラと3台所有しているから、それなりに金額になる。
国からのものは国へ返すよ、という。それも一つのアイディアですね、と感心する。
私は自動車税は、給付金が支給される前に納入していたので、このアイディアにはのれない。

まだ納税者でない子どもにも支給されているけれど、彼らは当然、将来、税金の形でしっかり負担することになる。
のちのちを考えると、使っていいものか、いけないものなのか、すごく迷っている。


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C ovid-19(12) 小さな幸せ

西から天気が崩れている。ここも午後からは雨の予報。コロナうつ病プラス気象病、最低の気分のなかで、今朝は一つの幸せ発見だ。

庭のスズランが咲いていた。
ベランダ脇にスズランの群生(というには少しだが)がある。葉は巻いた形で伸びてくるのだが、そこに白い花がついているのだ。

春には何かしら、小さな自生の花が咲いてきて、幸せ気分を味わえるけれど、やっぱりスズランは特別だ。
その花言葉が”幸せ”、ということもある。

フランスでは5月1日がスズランの日だ。この日は街角にスズランを売るスタンドがたくさん出る。
この日、スズランに限って、花屋さんだけでなく、だれもが売っていい、という制度らしい。
パリの町中でも、森でとってきました、という素朴な形のスズラン売りがみられたものだった。
今では、スズランもほとんどが栽培されたもので、花数も多いし、包装も凝っている。

恋人に限らず、愛する人に贈るという習慣、5月1日以降に訪ねたお宅には、必ずといっていいほど、スズランがある。
そして、5月1日に買い物やレストランにいけば、帰りに1輪のスズランを渡される、といううれしいこともある。

この土地に住み始め、最初はうまくスズランの季節にあわないこともあったけれど、あるとき、庭にスズランを発見して、とても幸せになった。
南国生まれだから、北海道のスズランは知っていたけれど、自庭でみる、ということは考えられないことだった。

そうしてみると、庭のあちこちにスズランが自生している。
また散歩の途中で、群生地をみつけることもある。

スズランというのは、日本に自生した植物なのだろうか。

ウィルスが世界に蔓延する中で、植物も今グローバル化、あるいは変形している。
さて、このスズランは?とちょっと疑問をいだきながら、まずは小さな幸せに浸っている。

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Covid-19 (11)密を体験

午前中、2か月に1回の薬のために、車で1時間ほどの町へ出かけた。
前回は3月、景色が全く変わっている。山の木々はすっかり緑になっている。常緑樹の濃い緑のなかに、若緑のコントラストが絨毯の模様のようだ。山桜は峯部分に残っている。山藤がうすい紫で奥ゆかしい。

そんな景色をみながら、久しぶりのドライブを楽しんだのだが、医院に着くと、車がほとんど満車状態になっている。
入り口には、熱のある方の受診はお控えください、といった注意書きがあるけれど、別に体温チェックはない。

待合室の椅子は、一人置きに座るようになっているし、満席というわけでもないが、久しぶりに人が集まっている、という雰囲気のなかに身をおく。
特別、体調が悪いわけではなく、薬の処方だけをいただければ、と電話でそれとなしに言ったのだが、受診ですね、と言われて、まあそうです、と返事をした手前、またお医者様としては、診察なしに処方は出せない、という原則があるだろうから、と診察を待つ。


待つことしばし、より長かった。一人ひとりの時間はたいしたことはないのだが、人数が多いのだ。老人ばかり、自分もその一人なのだが、高齢になると、体の故障はあちこちに出てくる。その結果、病院は高齢者が集まってくる。

座席は一人おきに座るようになっているし、いつもならある週刊誌や健康雑誌の類もなく、窓もあけて換気はできている。
考えられる対策はされているのだが、いつも一人きりで、人と接することのない生活を送っていると、このせいぜい20人の人数が大人数と思えるのだ。

東京の友人たちが、スーパーが混んでいた、住宅街でも踏み切りなどで、ジョギングや散歩している人がたまっているのがこわい、都心は少なくなったかもしれないが、地元の商店街の人が多くなった、と不安の数々を言うのが、神経質にしか思えなかったのだが、たったこれだけの人で圧迫感を感じる。

次回は7月になるのだが、もしできれば処方箋だけでも、とお伺いをたてると、電話での診断もできるようになりましたから、次回もコロナが解決していなければそうしましょう、と承諾していただける。
受付でその旨伝えると、電話で問診をしてなら処方はでます、という。そんなこと、今朝の電話で言ってほしかった、と心中思いながら、それでも薬局のためにはここまで来ることになるのだ、と田舎の不便さを再認識だ。

1週間前に行った総合病院は、空間の割りに患者数が少なかったからか、こんな”密”感は感じなかった。

楽しみにしていた焼き肉ランチ(店も休業中であったが)もあきらめ、ガソリンもセルフでいれ、スーパーの買い物も飛ばして、ただひたすら走った。もう緑のコントラストも、ダムの水量も、目にはいらない。

都会にお住まいの皆様にお見舞いもうしあげます、だ。


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Covid-19 (10)雑感

コロナに感染しているかどうか、PCRが何の略かもわからないまま使い、外国では万単位で実施されているのに、日本ではどうしてできないの?という疑問も解けないうちに、今度は抗体検査、抗原検査が実施されるとか。

その方法、目的など解説はあっても、ちっとも頭に残らない。
抗原検査は、ウイルスを形成するたんぱく質が体内にあるかどうかを調べる、そのタンパク質があれば、ウイルスが存在することになる、つまりpositiveというわけらしい。
抗体検査は、ウィルスへの抗体をもっているかどうかのチェックだ。抗体をもっていれば、再感染はない(はずで)町中にでることも可能というわけだ。

どっちの検査だったろう。血液中のIgGという要素を調べる、という説明があった。
なつかしい表現だ。たしかIgGには10ほどの要素があったと記憶している。
亡くなったつれあいは、このIgGの4番目、IgG4が異常な働きをするという難病で亡くなった。
肺の機能に異常をもたらしたのだった。

このコロナの場合、何番目のものか、というような詳細はない。
しかし、肺の機能を侵すのだから、もしかするとつれあいと同じような病状なのか?と思ったりする。
もし、つれあいが生きていたら、どんなに恐怖を感じる日々だろうか。

つれあいが残したマスクを使いながら、世界中の人たちがマスクをしている写真に、2020年の光景はこれで決まりだと思う。
それにしても、日本以外、あまりマスクをつけるという習慣がなかったのに、外出時は義務となっている、そしてちゃんと多くの人たちがマスクをつけていることに感動する。

どこもマスクを入手するのは難しいといいながら、いろんな国で、交通機関で、あるいは町中で、買い物のおまけに、マスクを配っている光景さえある。
日本ではどうしてそれがないのだろう。
アベノマスクはまだ届かない。

ヴァラエティに富んだマスクが出回っているし、気候が変わってきて、マスクによる熱中症という危険もでてきた。
いろんな生地で作られているようだが、通気性はどうなのだろう。もちろん、通気性がありすぎて、飛沫を通すものでは役立たずではあるけれど、息苦しさを覚えるようなマスクは使えない。

昔ながらのガーゼを幾重にも重ねたマスクは重苦しいし、耳にかける紐なのかゴムなのか、その具合も一長一短ありそうだ。

アベノマスク、1枚あたりいくらになるのか知らないが、こうなると、いろんな人が作っている手製のマスクを好きに購入する、とか、一番シンプルな不織布のマスクを10枚ほど配るとしてもらったほうがよほどよかったのでは?などと思っている。

昨日、テレビで資生堂の営業成績のダウンが報道されていた。外出時にマスク必須となってから、化粧、とくに口紅は邪魔になった。せいぜいアイメークで主張することしかない。
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Covid-19 (9)ウイルス媒体生物は何?

長い、長い疫病の歴史を読んでいて、現在のCovid-19と比較する。
昔はウイルスを媒体する生物、主として動物、ネズミやノミ、カなど、がいて、それらがウイルスをばらまいた。
今回はカでもノミでもない(そうだ)。

接触、飛沫、などが原因と考えられて、それからソシアル・ディスタンシングやらステイ・ホームが行われているし、友人に本を送ったら、受け取ったあと、半日は日に干して除菌をする、ということだった。
外国へ出した郵便が戻ってくるのも、その郵便が汚染されている、という可能性を考えての処置らしい。

この数日、気温が大幅に上がって、我が家は、対カメムシ戦争をしている。こちらは一人、あちらは数知れず、神経を消耗する戦いである。
そして、もし、このカメムシがもし媒体である、ということにでもなったら、我が家は即、隔離されてしまいそうだ。
別に我が家がカメムシを養殖しているわけではない。しかし、なぜにこんなに発生するの?と叫びたいほどに出てくる。

カメムシ?そういやな虫でもないじゃない、という友人もいる。きっとゴキブリよりはましだろう。しかし、私はいやだ。
何がいやなのか、臭いか。忍者みたいにこっそり現れることか。

この地に家を建て、10年ほどはカメムシの存在をしらなかった。家が古くなると登場するのかもしれない。

捕獲方法としては、ガムテープなどで抑えると、裏返しになって足をばたばたさせて、とガムテープ利用をいう友人もいるが、ガムテープの粘着度に問題ありで、私はティッシュペーパーなどでしっかりつかむ。ドライな虫なので、ティッシュでおさえても粘液がでてくることもない。それを使用済みの封筒などにいれてギュギュっとしぼりこみ、ごみの袋にいれる。

押さえ方が甘いせいか、すぐにカメムシが死ぬわけではなさそうだ。精一杯の反抗あるいは反撃なのであろう。臭いを出す。いまでは、我が家のにおいになっているようで、香りのあるものはなるべく使わないのに、なにかしら臭ってくるのはカメムシである。

コロナウィルスを運ぶわけではない(だろう)。こんなに敵視していいのだろうか。もし、カメムシが反撃にでて、ウィルスと提携、共同戦線でもはってみたら、私の命などあっという間に消えてしまう。
そんなことにならないように、カメムシ攻撃はやめるべきか?

奥深い流行病と生物の関係を読み解きながら、カメムシと私の闘争の歴史もまだ続きそうだ、と思っている。
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Covid-19 (9) 緊急事態延長はこたえるけど

5月6日まで、とひたすら待っていた緊急事態は5月31日まで延長された。
心理的な重石がを取り除けないのはつらい。

しかし、「疫病と世界史」という本を読めば、1カ月2か月の自粛など、瞬き程度の時間でしかないことがよくわかる。
ウィリアム・H・マクニール著「疫病と世界史」上下、中公文庫を読んでいる。

まだ読み上げたわけではない。上巻の半ばまではいったけれど、なかなか先へは進めない。
人類より古い疫病、まだ疫病という自覚もなにももてなかった時代、文字もない時代、自らを人間という生き物と自覚できたかどうか、それも判別不可能な時代から疫病は存在している。

疫病に名前があったわけでもない。
克服した、といえるかもしれない疫病、まだ残っているものは多い。
結核、梅毒、小児麻痺、エイズ、エボラ出血熱、はしか、ペスト、コレラ、マラリア、ジカ熱、ラッサ熱、まだまだある。

結局、人間とのかかわりあいで、これらの流行病というものの存在が顕在化していくのだが、人間
の都合で自然(いわゆる開発、自然破壊)が変えられ、また生物の生態が変わっていき、感染症も変化する。

そんな説明を読んでいると、自分のやっていることも、原因の一つではないか、と思ってしまう。それがミクロみたいな変化であってもだ。
たとえば、庭づくりだ。昨年の冬に、大きな木は全部切った。平面的な庭になった。枯葉は掃除し、今、雑草を手あたり次第にとっている。といっても雑草のほうが強いけれど。
特に、蕗の薹やタンポポの花は、綿毛が飛ぶ前に、とメインの対象だ。

昆虫の分類になるのかは知らないが、カメムシについては撲滅作戦を実行中だ。

むやみと一人でがんばって、庭づくりなるものをやっているけれど、これは一つの自然破壊ではないのだろうか、と考えてしまう。

この新型コロナウイルスをコントロールするまでに、どれくらいの時間がかかるのか、まだ予測はできない。
だから、この1カ月が1瞬き分なのか、2瞬き分になるかわからないのだが、今はやっぱり月末までなのか、とその長さにうんざりしている。

何十年後、何百年後には、そんなこともあった、といわれるのだろうが。
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Covid-19 (8) 寄付をしようよ

昨夜、テレビをみていて、ある広告に驚いた。広告というのか、寄付の訴えである。
その団体は、国境なき医師団だ。NPOの代表的な団体だ。
あまり映像がよくなく、あわてて作った画面にみえる。

昨日の昼間には、この団体から寄付を求める郵便も届いていた。
新型コロナウィルス感染症緊急援助活動をご支援ください、という訴えである。

この団体には数年前から不定期ながら寄付をしている。
NPOの団体は数しれずあるけれど、自分で納得のいく団体というのは、なかなかないものだ。

NPOにしても、国連関係にしても、大きな団体というのは、固定費用がかかってそう、寄付してもそんな部分に流用されて、本当に必要な、助けたい人のところに届かない、という人もいるけれど、こういう団体を組織、運営していくための費用も当然必要な部分だ。
それは、アフリカに住んでいたとき、自己満足である子供一人に的をしぼって助けようとしたとき、カトリックのシスターに指摘された。
恒常的に援助をしなければならない、恣意的であってはならないこと、そしてロジスティックが重要なこと、などだ。

このコロナ対策のため、MSF全体では予算1億ユーロを必要としているという。日本ではそのなかの583万ユーロ(約7億円)の支援をお願いしたい、という。

7億円の億分の1というと7万円?できるかな?
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Covid -19 (7) マスク作り

行方もしれぬ恋のみちかな、ではないけれど、行方のわからないCovid恐怖の日々、マスク不足が心配になってきた。
アベノマスクが届くかもしれないが、洗濯できるとはいえ、どうも頼りにできそうなマスクではない。

友人が手作りのマスクを送ってくれた。手仕事に長けた友人の手になるものだから、小池都知事のマスクみたいに、美人にみえるマスク、だ。
その辺のおでかけしかしない私には、とても普段使いができない。

つれあいの残した市販のマスク、まだ数枚は残っているけれど、いつ何時使いおわるかわからない。変に心配になってきた。

自分で作ってみるか、材料はあるだろうか?
母が残した布類のはいったケースをみてみる。いわゆる端布というのだろうか、当時の値札で100円、とか200円くらいの値段の布がある。木綿なら使えるか、韓国で買った麻布もある、それにつれあいの使っていたハンカチーフ、私のハンカチーフももう使わないから転用可だ。

断捨離をする、と言いながら、なかなか捨てられないでいたものが、役にたちそうだ。

今、断捨離の名人という人は、ときめかないものは捨てる、と言われているようだが、こんな端布や古いハンカチーフなど、ときめきはしない。けれども捨てられないでいた。
千葉に住む長姉は、マスク事情を聴いた私に、昔のガーゼのマスクを捨てないでいたから、またそれを洗って使っている、という。
昨年、息子夫婦と住むために、家を新築し、彼女は相当な持ち物を処分したはずなのに、なんで古いガーゼのマスクまで残していたの?と聞けば、とっておいたから、こんな場合に助かるでしょう、と先見の明を言う。

さあ、見つかった材料でマスクを作ってみようか。まず、本体を作ってのち、耳にかけるゴムは手当すればいい、と材料をひろげたものの、ミシンはこわれたまま、型紙はなく(ネットからひくということができない)、友人のマスクや市販のマスクを手本にする。

本体は韓国の麻がよさそうだ、つれあいの白のハンカチもそのまま本体に使える、花柄のハンカチーフは本体カバーにすると可愛いかも、とアイディアはでるけれど、実行はできない。

しかし、考えた。こういう有事の場合、ストックがものをいう。シンプルライフだ、トヨタのカンバン方式だ、スーパーやコンビニを我が家のストックルームに、などと現代は、ものを自宅におかない生活を是とするけれど、マスクもそうだが、トイレットペーパーにせよ、食料品にせよ、なにかしらのストックはしておく必要がある。

備えあれば憂いなし、それに電気も水道も通っているし、スーパーもあいている、耐久生活なんてものではない、と年寄くさいことを言いながら、切り刻んだマスクの材料、どうもそのまま屑箱いりの可能性もでてきた。中途半端な主張である。
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