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Covid-19(6)軽井沢の変容

今朝、軽井沢へと食料品の買い出しにでかけた。これからのGW後半をお籠りですごうため、一応平日の今日を選んだ。

いつも、浅間山のふもとを通る有料道路を通る。村民優遇の措置があるからだ。
なぜなのか、先行する車もなければ、後続車もない。
料金所はいつもだと一つだけが開いているのだが、今日は2か所にグリーンのライトがついている。こんなに車が少ないのに、やっぱり一応GWなんだ、2つも開けている、と料金を払うためにスピードをゆるめて近づく。
おかしい、人気がしないし、入り口に通行料無料と書いてある。5月31日まで無料通行できるのだ。

これは何のためなのだろう。料金所で働くひとたちを守るためか、有料道路の真ん中にある鬼押し出し園を休業したためか、ちょっと聞いてみたいと思うけれど、人はいない。
出口の料金所のすぐ近くで、奇妙な動物に出会う。ニホンカモシカだった。彼に聞いてみたいけれど、きっと彼も普段と違う様子に戸惑っているのだろう。

そしてさらに、白糸の滝を通る有料道路は閉鎖である。

そしてスーパーマーケットつるやでは、また奇妙な感じだ。まず駐車場がすいている。
圧迫感を与えるピカピカの高級車が少ない。いつもの地元車が主流だ。
入り口では、カートとバスケットを懸命に消毒しているスタッフがいる。
今日は平日だからこうなのか、クリーニング店の女性に聞いてみると、昨日もこんな感じでした、という。
テレビの報道番組で、軽井沢駅の人の動きがいつものGWや週末より80%以上の減少だ、言っていたけれど、そうか、都会のひとたちは、長野県にこないで、という訴えをきいてくれていたんだ。
私も、4-6日に訪れる予定だった友人夫妻にはコロナ終了後に、と先日お断りメールを送った。

しかし、軽井沢はこれから桜も見ごろ、きっと旧軽銀座いりぐちの桜は満開ではないかしら、いろんな木々が芽吹きはじめ、ようやく冬の印象を抜け出そうという、その時にこの景色をみてもらえないなんて、と、いつもなら人の多さに苦言を呈するのだが、今日は残念に思っている。

でも人が少ないのはこんなにスピーディなのだ。買い物も、レジもすいすい、そして一般道路も有料道路も専用道路みたいなもの、30分で帰宅することができた。


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我が家の桜、開花宣言

4月29日、我が家は桜の開花宣言をする。
この開花宣言、2つの意味での開花である。初めて、花をつけたのだ。
桜の種類は単なるソメイヨシノ、特別な種類でもなんでもない。

なぜ特別なのか。この桜、数年前、村の安市で求めたものだ。
つれあいが庭に桜がほしいね、といって、最初は八重桜の苗を購入したが、これはとうとう枯れてしまった。そのあと求めたのがこのソメイヨシノなのだ。

植木商の人は、来年には咲きますよ、と言ってくれたが、どうも我が家の庭は桜にはむいていないようで、つれあいが生きている間、そして去年まで一度も花芽がでなかった。
標高1000メートルはソメイヨシノには向かないそうだ。我が家の庭を時々面倒みてくれる土地の友人がそういう。そうは言っても、周囲にソメイヨシノがないわけではない。

どんなに大きくなっても大丈夫なように、北側の庭のど真ん中に植えた。しかし、成長もせず、花芽もつかず、この苗木、だめなのかもね、という私に、辛抱強いつれあいは、待て待て、いつか花咲くこともある、と浪曲のようなせりふでたしなめたものだ。

たった3輪の花、よくみてみると、あと3輪くらいは花がさきそうだ。

桃栗三年柿八年、ゆず12年とかいうらしい。桜は早いというのに、こんなに年数がかかるとは。
植木商の人にようやく咲きました、と報告したいけれど、今年の安市、4月29日が開催の日だが、今年はコロナで開かれない。

あまり酒をたしなまかったつれあいだが、今日は盃1杯、花見酒でもお供えしようかな。
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Covid-19雑感(6)環境問題の?

ロックダウン、あるいは外出禁止、要請、など、市民生活の抑制が世界の各国で始まって、1カ月ほどたつ。
外出できない、それがこんなに環境をよくするものだとは!
と、世界の各地での変化をニュースで取り上げている。

たとえば、インドではニューデリーからヒマラヤが見えるようになったとか。ニューデリーに行ったことがないので、平常、ヒマラヤが見えるのか見えないのか、知らないが、ニュースになるのだから、それほど空気がきれいになったのだろう。

ヴェニスでは、網の目のようにめぐらされている運河の水が、モーターボートやゴンドラがすべて動きを止めているためか、運河の水が澄んできたのだとか。今日のニュースでは、運河をゆったりと泳いているクラゲの映像があった。

ベトナムでは、自宅での食事が増えて、ごみが少なくなった、なんて報道もあった。

しかし、日本ではどうなのだろう。
交通量は減って、空気はきれいになっているかもしれない。
ただ、プラスティックごみはどうなのだろう。

飲食関係のお店の営業が制限されて、店を閉じるよりは、とランチパックを作って売る、あるいはテイクアウトだけにする、デリバリーサービスを始めた、または子供食堂などが、ランチを作って持ち帰るようにしている、この状況を乗り切るためのいろんな手段がとられている。

とてもデリバリーサービスを受けられる環境にないせいか、それらの画面をみながら、これらの容器は何でできているのだろう?と思っている。
紙製の容器というのは少ないのだろう。
とすると、やっぱりプラスティックか。

マスクは流通しなくなったけれど、こういう容器というのはたくさんあるのだろうか。
新規加入のお店も容器に困ることはなさそうだ。

フランスなどでも、閉店を余儀なくされたレストランのシェフが、お料理を病院のスタッフに作って届けている、なんていう美談が報道される。
本当にいい話だ。

しかし、レジ袋有料化など、なるべくプラスティック製品を使わないようにしよう、と気持ちを傾けたところに、これだけ消費が拡大していいものか。

医療用品にしても、防護服、手袋、ゴム製品であったりプラスティック製のものであったり、マイかい使い捨てという大量消費となっている。

このコロナウイルスの出現は、地球環境の変化によるものかも、という疫学専門家の発言もあったけれど、この状況を耐え忍ぶために許してしまうプラスティックの増加、これは長い、長い視点からすると、どうなのだろう。

問題は複雑すぎてわかあらない。
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Covid-19雑感(5)疑問の数々

テレビをつければ、ニュース、報道番組では、コロナ、コロナと耳にたこができるほどだ。
海外のニュースもコロナ尽くしである。
そんな中で、年末に供え、新語をチェックしている。

耳に新しいのは、クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、エピデミー、ステイ ホーム、ソシアル ディスタンシング、などである。
クラスターなど、最初から安倍首相を含む政治家、行政担当者、などが、専門家並にクラスターという言葉を多用するのにびっくりした。集団感染、あるいは感染をもたらした集団などに使われるらしいのだが、オーバーシュート、ロックダウンなどの言葉と同時に、カタカナ語が多用されるのについていけなかった。

政治家、行政関係者がこういう疫学用語なのか、学術的な横文字をもう当然周知されたものとして口にするので、このエピデミーは彼らにとって予定された災害であるか、それならばその対策もきちんと準備されているのだろう、と安心していた。ところがそうではなかった。
口先だけ、事情通ぶっただけであった。

変に言葉にこだわる癖があって、stay homeという言葉に対しては、stay at homeではないかと、友人の英語専門家に問い合わせをしたりした。両方とも可です、という返事であった。
ソシアル ディスタンシングについては、初めて耳にしたとき、なぜdistanceではなくdistancingなのか、という疑問をもったのだが、距離をとる行為をいう場合がdistancingなのであろう、と勝手に理解している。
今朝の朝日新聞では、WHOがソシアル ディスタンシングということばは社会的距離をとる、すなわち、関係の断絶ととられかねないから、physical distancingとしよう、と提言しているとあった。

フランス人の知人からのメイルで、外出禁止はconfinementと表現すること、そして今、禁止を解くことが検討されているけれど、それはdeconfinementであることはニュースで学んだ。

コロナとついた言葉もたくさんできている。
コロナ帰省、コロナ避難、コロナDV、コロナ離婚、友人はコロナ太り、もあるわ、と教えてくれた。

今やアベノマスク 3密なども欠かせない新語だ。

もうこの辺で十分という感はするのだが。
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パリ、ノートルダム大聖堂焼失1年

1年がたった。あの衝撃的な火事のシーンはまだ目に残っている。実際に目にしたわけではないが、テレビなどの映像でも十分記憶に残るものだった。

日本であれば、法隆寺金堂の火事もあったけれど、世界的な知名度からいえば、ノートルダムのほうがあるから、というわけでもないが、こちらの年齢のせいもあるのだろう。
あんなに簡単に燃えるとは。。。ヨーロッパの建造物は石造りが多くて、火事にはなりにくいというのが錯覚、誤解であることがよくわかった。

昨年12月、クリスマスをパリで過ごしたとき、交通ストもあって、寄宿先から徒歩でノートルダムへと行った。
近くになると、なにかしら焼け焦げのにおいがした。もう8ヶ月もたっているのに、と思ったが、あれは焼けたときのにおいだ。

周囲はしっかり防護柵が施されていて近寄れなかったけれど、さいわい、横にある通りの住人と知り合いだったので、その建物の5階にある彼女のアパルトマンから大聖堂を見ることができた。

祇園精舎の鐘の音、栄枯盛衰、ということばが浮かんできたものだ。別にノートルダムが栄光の象徴というわけではないが、その規模から、歴史的な記念の行事が行われることがある、など、やはり象徴的な存在で、永久不変という錯覚もあったので、簡単に焼失したのが驚きだったのだ。

このコロナも人間の慢心をいさめるためにおきたことなのだろうか。

自然の不作為で起きたこととしては、なんとも犠牲が大きすぎる。
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Covid-19雑感(4)格差促進

この重苦しい雰囲気、2月あたりからのことだろうか。
学校が休校ということになり、勤労者はテレワークや時差出勤、なにやら、言葉は知っているけれど、どうすればそんなことができるのやら、と現役を退いてひさしい人間にとっては別次元の労働環境になった。

以前、まだ現役時代、翻訳の仕事なら、自分のパソコンで翻訳したものを注文先へ送るということぐらいはした。しかし、不特定な人から電話で問い合わせを受け、調べて返事をする、という仕事はやはり仕事先の事務所でなければできないものだった。

慣れればできるのかもしれないが、画面をみながら、変に電子音ぽい声に対応する、というのが落ち着かない気分になる。

学校の授業にしても、一対一の対応もしてもらえるのかもしれないが、小さな画面にでてきたものにはなにかしら広がりがないような気がしてならない。

私のような高齢者が対応できないのはいいにしても、少数の人たちが対応できるというだけで、それで済むような、テレワーク促進、在宅学習促進、なにか政府の一方的な思惑だけが先行する。

今朝、フランスの放送で、マクロン大統領の4回目になるという声明を聞いた。
その前日まで、フランスでは学校の再開は9月の新学期になる、というニュースが報道されていた。
3月から休校、そして全体の外出禁止へと進んだフランス、このまま9月までこの状態が続くとなれば、教育は1年の半分を受けられないまま終わるのではないか、と外国のことながら心配していた。
マクロン大統領は5月再開を考えているという。

そしてその理由として、自宅での学習ができない家庭もあること、教育格差が広がる恐れが現実的であること、などをあげていた。
大統領が格差問題をきちんと認識していることに安堵した。

社会が普通に回っているとき、ようやく底辺も少し底上げできそうになったとき、このコロナが突然現れた。
田舎暮らしであれば、銀座や新宿のネオンが消えたの、渋谷のスクランブル交差点の歩行者が減ったの、というのはテレビの画面ではみても、実感はしない。
しかし、都会でその日暮らしをしている人たちが、どこに救いを求めているのだろう、という思いはもつ。

10万円という数字があっという間に30万となり、その趣旨は変わっているのかもしれないが、まずは今日の1000円がない人もいるだろうに、早く少額でもいいから、現金を必要な人にわたしてくれ、と言いたい。
現金のかわりにマスクが各住所に届くらしいが、145億円という金額、マスクより現金支給のほうがきっとうれしいだろうに、と思う。

マスクにしてもいつ届くのやら。
針仕事の苦手な私は、手持ちのマスクの内側に、今ではほとんど使わないローンのハンカチーフをあてがって、出かけるたびに交換する、という手段をとっている。

今、フランス革命時、食べ物を求めて集まった民衆に対し、「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言ったというマリー・アントワネットの言葉、これが真実かどうかは別として、民衆が真に求めているものと、施政者のすることの食い違いの大きさを実感するものだ。
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Covid-19雑感(3)

今日はなかば恐る恐る軽井沢のスーパーで買い物に出かけた。
週一の買い物である。
緊急事態宣言が出たあと、何かしらの変化があるのか、都会から避難してきている人が買い物に押し寄せてきているか?恐る恐る、こわごわと出かけた。

9時半からの開店、パリで見かけるような、social distancingで1-2メートル離れて行列しているだろうか?そうではなかった。
今回は出入口に近い駐車スペースは空きスペースはないけれど、遠いところはすかすかだ。

中もまだ閑散としている。商品も山とつまれ、買い占め、買いだめも起きていないようだ。
コロナ避難で地方に来ないでください、という発言が効いているのだろうか。
まあ、週末はまた違うのかもしれないが。

入り口で消毒スプレーを使う。それでああ、あれを買わなければ、と思いついた。
それはハンドクリームだ。
手洗いキャンペーンに従って、一日中、手洗いをしているような気がする。
ほとんどコロナウィルスとは縁がないような山の中暮らしだけれど、新聞買いに寄ったコンビニ、手紙を出した郵便局、それしかないけれど、外にでれば7人の敵ならず、ウィルスの個体はどう呼べばいいのか知らないが、7つのウィルスに接しているかもしれない。

石鹸をたっぷり使って丁寧に手洗いをすると、若い人と違って、すぐに手の脂肪分がとれてしまう。そこですかさずハンドクリームを摺り込む。消費量もばかにならない。

もしかしたら、ハンドクリームの品切れは起きていないのか?心配になって、最初のその売り場へといった。
取り越し苦労だった。
日中は国産の、アロエ入りのハンドクリームを使用している。就寝前には、お気に入りのフランス製ハンドクリームだ。
その両方のおかげで、がさつくことはなくて済んでいる。

そして変なことを思い出した。
アメリカ、トランプ大統領のお嬢さん、イヴァンカさんがSNSにアップした光景だ。
お子さんたちと手洗いをしている場面(私が見たのは手洗い場面ではない)で、使用しているハンドソープが高級すぎる、というので、非難が殺到しっというのだ。
そのハンドソープはオーストラリアのAesopというメーカーの品という。とても高価で、そんな品を子供に使わせるなんて、感覚がおかしい、という非難がでたらしい。

そのAesop、ハンドソープではないが、私も使っている。
そんな高級、高価なものとは知らなかった。
昨年、東京でとあるバザーに行った時、福引があって、それで当たった品がAesopのものであった。
洗顔せっけん、化粧水、フェイスクリーム、リップクリームが入っていたのだが、初めて見るブランドで、高級品なのやら、普通品なのやら、何の知識もないけれど、あるものを使う精神で、使い始めたのだ。

変な香料がはいっていないのは確かで、なにか化学薬品を使っている雰囲気で、最初はこわごわ、炎症をおこしはしないか、使っていた。
もう数カ月になるけれど、肌がきれいになった、と言われることもないし、肌荒れしたということもない。

イヴァンカさんの記事をみながら、これはもしかしたら、使う人がお金持ち、あるいは美人だと効くのかな?と思った次第である。

今回のコロナウィルス、最初は年より撲滅作戦で流行しているのかも、と年寄の間で僻んでいたけれど、この頃は若い人、そして赤ん坊までかかっているから、そうではないことはわかった。

飲酒、喫煙はよくないらしい。この二つはしていていいことはない。だから、これを機会に緊急事態宣言に、これからの飲酒・喫煙も自粛対象にする(強制力を伴う)なんて言ってくれればよかった、と思っている。

どこでどう感染するのか、はっきりした感染経路がわからないので、不気味そのものなのだが、これが経口感染はないようなので(飛沫などは別として)、すこし安心している。これが食物によって感染するとなると、もっともっと複雑な対応になる。

スーパーを出る時、思わず、「開けていただいてありがとう」と振り返りながら一礼したのだった。
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Covid-19雑感(2)

4月7日、緊急事態宣言が出される。
予告されてのことだから、昨夜からもうこの宣言のことでメディアはかかりきりになっている。
もちろん、情報が細かく流れることが必要だ。

この新コロナウイルス流行、私はデジャヴュ(dejavu)感がしてならない。
それはアフリカでの経験だ。

アフリカにいたとき、疫病流行は通常のことで、3大感染症といわれるマラリア、結核、エイズは日常のことになっていた。
コロナ流行に伴う外出規制と買いだめ現象についての既知感だ。

買いだめ:
 私が住んでいたところでは、日常的に生活用品が不足していた。
 到着して数日後、街の様子をみるため、一通りの通りをドライブすると、ハイパーマーケットがいくつか目についた。そうか、こういうところで買い物できるのか、とちょっと安心したものだ。ところが空安心だった。店に行けば、駐車場ががらがら、それもそのはず、建物は大きいけれど、売り場になにもない。
 買い物は町中にある、そんなに規模は大きくない、いわばこじんまりした店なら可能であることが分かった。
 教えてもらわなければ絶対わからない小さな店は、一部屋空調ならぬ冷凍庫となっている部屋があって、そこに週1回、南アからだったらしいが、輸入される生鮮食料品がでるのだった。
 午後2時ごろだろうか。その部屋が開くのをまって、それっと入る。目についた食品をつかんでいく。そこには礼儀などない。
 一度、珍しい(ありふれているけれど、入荷されるのが珍しい)食品をみつけ、手を伸ばしてつかんだのだが、もう一人、手をだした人がいた。引っ張り合うその人をみると、顔見知りの某国大使であった。Bonjour Monsieur Ambassadeurとあいさつする。彼もBonjour Madameとあいさつを返してくれるけれど、食品から手を放す気配はない。根負けしたのは私だった。この国においては、食品にかぎらず、物品は入荷したとき、手に入れたものが勝ち、プロトコールなどは存在しない、それが滞在中に得た教訓だった。

 だから、一斉にトイレットペーパーが消えても、そう不思議には思わない。本能とは言わないけれど、欠乏に対する恐怖心は、先進国でもあって不思議はない。そこに社会性は期待してはならない。日本では血をみるほどのことはないから、まだ社会性は十分あると思うのだ。

外出規制:山の中に住んでいると、都市感覚がなくなって、外出規制がピンとこない。いつも一人
通行人などいはしない。
だから緊急宣言がでようとでまいと、同じ状態なのだが、こんなに予告があり、メディアの分析を聞いていると、アフリカではこの情報というのが全くなかったことを思い出した。
疫病流行での外出規制ではなく、内乱や治安状態が悪くなっての外出規制だが、まずは夜間外出禁止、ついで全日外出禁止、そして戒厳令へと進むけれど、一挙に戒厳令ということにもなる。
もともとテレビ、ラジオ、いつ情報が流れるのかわからないのだが、住民はなにかの手段があるのか、町中からさっと人が消える。
通りに座ってパンや果物を売っているおばさんが消えると、もうこれは大変なことだ。

もともと、高い塀で囲まれ、窓やドアも鉄格子で囲われた家で暮らしていると、拘束感は常に感じているのだが、二階のベランダにも出られないとなると、やっぱりつらい。
食料品は十分に用意していたか、スタッフは残ってくれるのか、それとも帰さねばならないのか、その時、どのように行動したのか、もうあまり記憶にない。
悪い事は忘れてしまう、という人間の本能なのかもしれないが。

2月末からずっと籠っていたような日々、これがあと1カ月続くのだ。
食料品は供給されるという。それを信じて、強いて買い物には行っていない。
買い物予定日に行って、あるものを買う、そんな気構えなのだが、きっと欲しいものがなければ、パニックになるのかもしれない。
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Covid-19雑感(1)

家に閉じこもって、人と接することもなく、音がないのも寂しい、とテレビをつけている。
平日の報道番組の多いこと、ニュースというより、エンタテイメント的な報道もあるのだが、ほかにみるものもないので、結局はみている。

そんな中で通り一遍の報道されることに、どうして?という疑問もある。
疑問1:医療崩壊を招かないために、むやみやたらと検査しない。
 ちょっと熱がある、咳をする、こんな程度で病院にいくな、検査を求めるな、という。
 それでいて、日本人の特性かもしれないが、風邪程度で休めない、と職場へ行く人もいる。
 数日、そんなことを経て、やっぱり熱は高くなるばかり、体調が悪いと再度病院にいき、検査をしてもらうと、陽性だ、なんで自宅で静養していなかった!と責められている。
 病院の診断書も得られず、仕事を休めるひと、どのくらいいるのだろう。

疑問2:軽症のひと、あるいは、入院治療後、軽症になった人たちは退院している。
 これらの人たちは、体内からウィルスは消えたのだろうか。もし消えたのなら、軽症になった、というのではなく、治癒した、と表現されるべきではないのか。
 そのまま、自宅に戻り、普通の生活をして、もう人を感染させる危険はないのか?

疑問3:未知の病気であり、ワクチンがないのは当たり前ながら、治療はどうしているのか?これが有効、という治療方法は見つかったのか。軽症で自宅にいるように、といわれたときに、お薬は出してもらえるのか?何を出しているのか?市販薬で何か効果があるものはないのか?

疑問4:外国から帰国したり、来日した人たちの待機・隔離期間を全うできる施設の準備はされているのか。

幸い、隔離施設のようなところに住んでいるので、ウイルスと出会う機会は少ないけれど、ゼロではないし、その場合、医療機関も整っていないへき地での対応方法も疑問である。
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