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Covid-19雑感(2)

4月7日、緊急事態宣言が出される。
予告されてのことだから、昨夜からもうこの宣言のことでメディアはかかりきりになっている。
もちろん、情報が細かく流れることが必要だ。

この新コロナウイルス流行、私はデジャヴュ(dejavu)感がしてならない。
それはアフリカでの経験だ。

アフリカにいたとき、疫病流行は通常のことで、3大感染症といわれるマラリア、結核、エイズは日常のことになっていた。
コロナ流行に伴う外出規制と買いだめ現象についての既知感だ。

買いだめ:
 私が住んでいたところでは、日常的に生活用品が不足していた。
 到着して数日後、街の様子をみるため、一通りの通りをドライブすると、ハイパーマーケットがいくつか目についた。そうか、こういうところで買い物できるのか、とちょっと安心したものだ。ところが空安心だった。店に行けば、駐車場ががらがら、それもそのはず、建物は大きいけれど、売り場になにもない。
 買い物は町中にある、そんなに規模は大きくない、いわばこじんまりした店なら可能であることが分かった。
 教えてもらわなければ絶対わからない小さな店は、一部屋空調ならぬ冷凍庫となっている部屋があって、そこに週1回、南アからだったらしいが、輸入される生鮮食料品がでるのだった。
 午後2時ごろだろうか。その部屋が開くのをまって、それっと入る。目についた食品をつかんでいく。そこには礼儀などない。
 一度、珍しい(ありふれているけれど、入荷されるのが珍しい)食品をみつけ、手を伸ばしてつかんだのだが、もう一人、手をだした人がいた。引っ張り合うその人をみると、顔見知りの某国大使であった。Bonjour Monsieur Ambassadeurとあいさつする。彼もBonjour Madameとあいさつを返してくれるけれど、食品から手を放す気配はない。根負けしたのは私だった。この国においては、食品にかぎらず、物品は入荷したとき、手に入れたものが勝ち、プロトコールなどは存在しない、それが滞在中に得た教訓だった。

 だから、一斉にトイレットペーパーが消えても、そう不思議には思わない。本能とは言わないけれど、欠乏に対する恐怖心は、先進国でもあって不思議はない。そこに社会性は期待してはならない。日本では血をみるほどのことはないから、まだ社会性は十分あると思うのだ。

外出規制:山の中に住んでいると、都市感覚がなくなって、外出規制がピンとこない。いつも一人
通行人などいはしない。
だから緊急宣言がでようとでまいと、同じ状態なのだが、こんなに予告があり、メディアの分析を聞いていると、アフリカではこの情報というのが全くなかったことを思い出した。
疫病流行での外出規制ではなく、内乱や治安状態が悪くなっての外出規制だが、まずは夜間外出禁止、ついで全日外出禁止、そして戒厳令へと進むけれど、一挙に戒厳令ということにもなる。
もともとテレビ、ラジオ、いつ情報が流れるのかわからないのだが、住民はなにかの手段があるのか、町中からさっと人が消える。
通りに座ってパンや果物を売っているおばさんが消えると、もうこれは大変なことだ。

もともと、高い塀で囲まれ、窓やドアも鉄格子で囲われた家で暮らしていると、拘束感は常に感じているのだが、二階のベランダにも出られないとなると、やっぱりつらい。
食料品は十分に用意していたか、スタッフは残ってくれるのか、それとも帰さねばならないのか、その時、どのように行動したのか、もうあまり記憶にない。
悪い事は忘れてしまう、という人間の本能なのかもしれないが。

2月末からずっと籠っていたような日々、これがあと1カ月続くのだ。
食料品は供給されるという。それを信じて、強いて買い物には行っていない。
買い物予定日に行って、あるものを買う、そんな気構えなのだが、きっと欲しいものがなければ、パニックになるのかもしれない。
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