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思い出はプライスレス

先日、公民館で古物の買い取りをする、という。
もちろん、行政で買い取りをするのではなく、業者が出張買取をするだけだ。

買取といわれると、こころが動く。家の中には処分を待っているしながたくさんある。
ただ、普通ごみでは出すにはばかられ、粗大ごみで出すのはなんだか惜しい、と何かしら、ごみに出すのはね、という心理が働いている。

まずは取り扱われる品々の一覧表を見せていただく。
金、プラチナ、貴金属から始まって、高価引き取りだろうものは、宝石、ダイヤモンド、金貨・記念硬貨、アクセサリー、インゴット、と続く。

テレビでよく、金製品や未使用あるいは使用していても、ブランドのハンドバックなど、えー、こんなにお高く!!!とびっくりする引き取り価格が出る場面があるが、ああいう場面がしっかりインプットされていると、自分の持っているものも、もしかしたら高価引き取りの対象になりはしないか!と期待を持つ。
骨董品と称されるものもそうだ。親がこれは高価なものだ、とか家代々の、などと言っていたから、きっと高いに違いない、なんて思い込んでいる。

そう思い込みのある間に、一度、骨董商に自宅まで来てもらったことがある。
母が自慢していた陶器や漆器、茶道具、長持ち、茶箪笥、骨董商の気を引いたのはほとんどなかった。
2時間もかかるところから来てもらったことが悪くて、本当は売却予定にはいれていないものまで、これなら査定できます、と言われると、どうぞお願いします、と売却対象にいれたのだった。

そんな経験を持っているにも関わらず、高価買取、と旗がたっていると、それならば、と思ってしまう。

もう骨董品として価値のあるものはないはず、徐々に処分していきましょう、と決めてもう10年近くなる。
つれあいも亡くなった。一人で決めていける。なのに、どうしてどうにもならないのか。

お金が欲しいわけではない。だから、業者のかたがつけられる価格に文句を言う気もないはずだ。

邪魔するものは思い出だ。
なにかにつけて、思い出がまとわりついている。
簡単に換金できる金製品にしても、これはだれからいただいたもの、あの日、あの場所で買ったもの、今更、どうしようもない思い出が、手放すことを邪魔している。

もうずいぶん金や宝石こみのアクセサリーをプレゼントした。
さあ、これはどこでどう入手したもの、と説明し、もらうほうも、大切にします、と言って受け取ってくれたはずだが、こちらの思いが全部伝わっているとは思えない。

二束三文になっても、と業者はいわないが、なんせ、処分しておかないと、死後は大変ですよ、ごみで出すにしたって有料なんですからね、と決定的なことを口にする。
そうなのだ。そういう形で処分するとき感じる罪の意識、これをあとの人に味合わせるわけにはいかない。自分の代で、と思うのだが。

もう一年、執行猶予だ。プライスレスの思い出にプライスをつけて、100円、200円でも納得できるようにしていこう。
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