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イスラエルとパレスチナ

またイスラエルとパレスチナの間で戦闘が行われた。
またか、という思いとともに、どちらに正義があるのかわからない、というもどかしい思いが起きる。
今回はハマスから攻撃を仕掛けている。攻撃をするにいたった原因、なんなのだろう。
そういう長い、深いことについては、メディアも報道していないのでわからない。

もう相当昔になるが、若いころ、一度イスラエルに行ったことがある。
当時は少し冒険っぽいことが好きで、まずはエジプトを一人で旅行したのだが、陸路でイスラエルに入れるという情報を得て、歴史上にも、時事的にも話題満載のシナイ半島を横切り、スエズ運河を渡り、そしてイスラエルに入るというコースをとった。

このルートにはバス便があり、カイロでそのバス会社を探すのも一仕事であったが、定期運行のバスチケットを予約した。
当時、7,8時間はかかってような記憶がある。
シナイ半島のどこかが国境で、いったんバスを降りて、イスラエル入国手続きをする。そのとき、パスポートに入国のスタンプは押されない。別の用紙に押されるのだ。
これは、イスラエル入国の記録がパスポートに残ると、アラブ系の国々での入国が拒否される、という現実によるものだった。
これが一つの現実チェックだあった。

そしてあとでわかったことだが、イスラエル行のバスは、イスラエルの会社経営のものであった。とても設備の整った、つまり冷房がきき、トイレもついていた。条件のいい方のバスをまず使った、ということで、帰りはさんざんだった。

国境のチェックをする建物も、エジプト側は粗末、そしてイスラエル側は冷房のきいた、コンクリートのしっかりした建物であった。

そういうわけで、国境以前に、そして国境で、この2国の違いというのを見せつけられた。
双方の事情にうとい私にとっては、イスラエル側が好ましく映ったことは当然かもしれない。

スエズ運河は、バス自体がフェリーに乗せられて、すんなり渡った。
これがスエズ運河だ、とドラマチックに、歴史を思い出し、幾多のエピソード(たいして詳しくもないのに)を紐解き、一人、感激していた。
女の一人というのは私だけで、ちょっと奇異にみられていたかもしれない。

そのあとの行程はよく思い出さないが、いつしか、テルアビブにはいり、バスセンターみたいなところで終了であった。
おそらくホテルはそのセンターにあるインフォメーションで紹介されたのだと思う。
海岸際にある中級のホテル、という記憶があるが、シーツがとても古かったことを今でも覚えている。
不潔というのではない。洗濯され、糊もきいているのだが、なにせ繊維が古い印象があった。
そして、幾多の開発途上国旅行を経験して、それは国の貧しさを、そしてイスラエルが戦争状態のままであることを表していること、それに気づいたのだ。

テルアビブから観光バスに乗車して、国内観光をした。
その観光バスはすばらしい設備で、心地よかった。
ガイドは中年の男性、硬い英語を話した。硬い英語で、二言目にはアラブをけなした。
当時、私は世界情勢に感心はあったけれど、このイスラエル旅行は、第二次戦争当時、虐げられたユダヤ人が建国した、という歴史だけを確認したくてきたのだった。
それまでに見た映画は、イスラエル建国の苦労や国民の努力など、イスラエル側にたったものばかりで、このガイドさんの説明にも、すこし違和感は覚えつつ、自分のもつ知識を確認するおもいだった。
また同乗者たちは、世界各地からのユダヤ人で、特にアメリカ人が多かった。
だから、バスの空気はプロユダヤで満ちていた。

パレスチナという固有名詞や知っていても、当時は、イスラエルに反抗する存在、イスラエルを受け入れない悪人だった。

テルアビブからエルサレムに移ると、この国がどういうふうになっているのか、わけがわからなくなった。
旧市街の入り口近くにある近代的なホテルに宿泊しよう、とはいると、それはそれは豪華で、フロントの黒服の男性は、とてもにこやかに迎えてくれた。宿泊費をきくと、1泊100ドル(正確ではないが)と言われる。とんでもない金額だ。
あとで知ったが、このホテル、ユダヤ系アメリカ人が顧客のホテル、宿泊が高額なことも当然だった。
それでも、この黒服さん、とても親切に、旧市街の中に、宗教団体(カトリック)が宿泊施設を持っている、と教えてくれた。

エルサレムの不思議は、この宿泊先でも感じた。
ガイドブックで、この旧市街、宗教の巣窟(決して適切な表現ではない)だ。
キリスト生誕(それは近くのベツレヘムだが)、死亡の地であるというので、基督教の団体、とくにカトリックと東方教会、そしてユダヤ教徒の聖地であり、またイスラム教徒にとっても同様である。
私が泊まった女性信者のドメトリーは、イスラム教の勢力地区にあり、早朝から拡声器でお祈りが唱えられていた。
教会では、朝7時にミサの鐘が鳴らされた。
嘆きの壁の上は、金色のモスクがあり、キリストが十字架を背負って歩かれた道路の両脇は、アラブ人経営のお土産屋さんが並んでいた。

混沌、この言葉がぴったりの町だった。

テルアビブあたりで、あれほどパレスチナ人を制限しているのに、ここではどうしてパレスチナ人がこんなに多くいて、商売もできるのだろう、と不思議で仕方なかった。

死海やその他、いろいろな旧跡をたどるかたわらには、貧しいパレスチナの人々の家と、入植したユダヤ人のぴかぴかした新築の家がみえた。

エジプトへの帰路のバスは、エジプトの会社のもので、8時間の長距離を乗るにはお粗末、空調もなく、シナイの砂漠のなかで、窓を開けられないし長時間をトイレなしで乗らなければならない、悲劇直前の旅行となった。
往路が快適だったので、帰路も当然、そうだと思いこんだ、経験値のうすさが身にしみた。


矛盾を矛盾とわかるのは、エジプトに戻り、日本に帰国したあとのことだったが、その矛盾がいまなお、イスラエルとアラブの対立、救われないパレスチナの存在、その疑問はいまでも解明されない。

今回の紛争、まだ戦争とまで呼ばれてはいないようだが、どうなるのか、どれだけの犠牲者がでるのか、もう胸が痛い。
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