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世界トイレの日

今日は国連の定める「世界トイレの日」なのだそうだ。
トイレの話というのは、一般に避けるものだ。枕詞に、「尾籠な話で恐縮ですが」などとつけてちょっとだけ話していたことを思い出す。

トイレ、あるいは排泄というのは大切な問題だ。食べることと同じくらい大切なことだ。
年齢とともに、排泄に問題あり、という状態になってきているので、排泄する場所としてのトイレ環境は気になってしかたがない。

今でも続いているウクライナの戦争、春に、東部の住民が、製鉄工場の地下に避難してすごしていた、という話のときに、トイレはどうなっているのだろう、と気になってしかたなかった。
そういう尾籠な話が、あまりニュースでは取り上げられなかったけれど、バケツで用をたし、それがいっぱいになると、表に捨てにいった、という話であった。

おなかがすくのもいや、寒いのもいや、眠れないのもいや、清潔でないのもいや、といやなことは多いけれど、きれいなトイレで用がたせない、というのの優先度は高い。
今でも、停電1000万世帯、などと聞くが、トイレをどうしているのだろうか。

今は昔で、この頃は昔のことを思い出すこと、しきりだが、若いころは、旅行の場所選びにトイレ問題はあまり重要ではなかったように思う。
だから、パキスタン旅行の折、イスラマバードからヒマラヤのフンザへと出かけたとき、トイレの有無のチェックをしなかった。
イスラマバードから車で出かけたのだが、昼ご飯を食べるレストランあたりに当然ある、と思ったのが間違いで、ガイドに問うと、ない、という。
どうすればいいの?と聞けば、川の向こう側に適当に場所をみつけてすませてください、というのだ。
なんてこった!そんなの聞いていない!と叫んでも、今更、どうしようもない。
川の向こう側にわたって、しかるべくすませた。

アフリカに住んでいたときも、同じようなことがあった。
なるべく、遠くへ出かけない、どこかでトイレが使えるような場所を確保する、という原則はもっていたが、原則があっても、それが通じるところばかりではない。
野の花つみ、などと、上品に表現しても、その行為のするところ、お尻をむき出し、となるのは変わらない。虫に好かれるのもこういうときだ。ハエはアブ、蜂、名もしらぬ虫どもが表敬訪問に現れる。
苦しうない、近う、近う、などとは決して言わない。あっちへ行け、と叫んでも、なかなか去ってくれないのだ。

アフリカではたとえトイレがあっても、その状態は安心できない。
ある村で、シスターたちのお住まいだからきっとちゃんとしたトイレだろう、と安心して案内されたところは、深い穴が掘られているだけ。そこがトイレなのだ。
もし、足をすべらせて落ちたらアウト、それより、下には蛆虫がうようよ、もうすぐにトイレをすませるのはあきらめる。

アフリカ経験者から言われていた。外出する日は水分をとらない。あまり食べないでいる。
そして、帰宅するまでトイレは我慢。
20年前の経験でなのだが、果たしてもうこれらの問題は解決しているのだろうか。

衛生的なトイレを使用できる人口は、80億人中どれくらいだろう。5億人近いひとたちがトイレなし、だというし、またトイレがあっても、衛生的であるかどうかはまた別問題だ。
80億人全員が水洗トイレなどを利用し始めたら、水がどんなにあっても足りないだろう。
今の我々が使っているトイレが、そういう問題に対処しているとも言えない。

だが、自宅の慣れたシャワー式トイレ、これにしくものはない。
戦争や災害でもトイレは使えなくなる。

今日は、せめてと、トイレットペーパーを1カット分、使用を減らしている。

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