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葬儀のあり方の変容が過激すぎる

今年の2月はつらい月になった。
短い月なのに、なにかいろんな印がついた日付がおおい。
命日、誕生日、なんで2月はこんなに記念日があるの?と思っていた。

16日、南仏に住んでいた時、受洗のための勉強を手伝ってくださった方の命日、彼女はコロナで亡くなられた。
22日、パリの親と呼んでいた方の命日、もう8年にもなる。22日に亡くなられ、ご葬儀は29日だった。つまり閏年、8年前になる。この葬儀にはパリまでいって参列した。

そんな中、5日には、関西に住む96歳の知人の訃報、母のような存在だったが、ご葬儀は本当に家族だけでという。
50年をこえるお付き合い、本来なら通夜からすべての儀式に参加すべきだし、参列したいと思ったが、喪主(長男)の意思がそうであれば、と参列をあきらめる。
しかし、どうしてもお参りして告別を、という気持ちから、月末、関西へでかけることになった。
その手配で、あれこれしているときに、新たな訃報が届く。

それは従兄で、高齢に加え、長年、糖尿病で苦しんでいた。
母方の従兄で、この従兄の出産時、母が手伝ったということがあり、母にとっては、子供にも似た感情があったのか、大きくなっても、とても親しくしていた。
帰省時、母のお墓にまいる、というと、必ず同行してくれていた。
ボケ防止に週に10人に電話するんだ、という10人の中に私もはいっていて、時折、電話でとりとめのなさすぎる会話をしていた。
その従兄の死は、彼の姉(高齢者施設にいる)の息子から知らされた。
この死去のニュースは、姉と弟に連絡するだけで、二人とも従兄とその配偶者への連絡方法は持っており、弟が右総代で、葬儀には参列、というシナリオが完成した。

そのあとにもう一つ訃報が届いた。
母の実家の家業を継いでいた従兄である。
母が亡くなったときには葬儀に参列してくれていたが、もう半世紀、コンタクトがない従兄だった。
母は兄弟姉妹が多く、いとこの数も必然的に多かったし、若いころは従兄会などして、親しい関係にあったけれど、いつ頃からか、疎遠になっていた。
郷里に帰る回数も少なくなり、何年かに1回、そして、帰省時には、親戚よりも中学、高校の友人との再会が優先して、親戚との関係が薄くなっていった。

この従兄の訃報は、アメリカ経由でのルートで知らされた。故人の妹がアメリカ在住なのだが、彼女はその昔、アメリカ人と結婚して、その結婚を認めない親(父親)から絶縁を言い渡されていた。
そして、この従兄は長男として、やはり絶縁を続けていたらしい。
今からすれば、ばかばかしい話だが、当時は、どこの馬の骨かわからない、そんな人との結婚も認められず、ましてや外国人、外人と呼んでいたが、との結婚はそう簡単に認められなかった。

そんなこんなで、従妹はずっとアメリカ在住なのだが、だれからか兄の死を知らされたらしい。
ただ、訃報だけで、詳細は自分で調べて、ということで、まずは弟に知らせた。
ところが、弟は母の実家である、その故人の家の連絡先を知らないという。
それからである。母の実家の連絡先を知るための、聞き合わせが始まった。
病院に入院中の姉に聞く。姉は自分の携帯に登録している従姉妹の電話番号を知らせてくれる。
それは固定電話であった。電話すれど、もう使われておりません、だ。

従姉の子がアメリカ在住の従妹とラインでつながっているというので、従妹がだれから連絡を受けたのか知らないが、なにしろ連絡の付けられる先をきいてもらう。

教えてもらったのは、亡き母の弟(故人)の長女の電話番号、これは携帯であるから通用しそうだ。
もう何十年も連絡したことがない従妹、もしかして忘れられているかも、と思いながらかけてみる。
名乗ると、えー、姉ちゃん!と昔の名前で呼ぶ。
もう老年の二人だが、なになにちゃんと呼びあった昔に戻ってしまうのだ。

この従妹にも訃報は伝えられていなかった。
しかし、彼女が持っている固定電話の番号を教えてもらい、電話をすることで、従兄の死亡は確認できた。
配偶者の意向で、家族葬、それも本当に限定的な形でする、ということを伝えられた。
母の実家の長男だから、となつかしさもあるが、義理の気持ちも半分で、やっきになって連絡先を求めたけれど、結局は、なにもしないと、弟、姉と納得したのである。

顧みれば、たとえば私自身、親戚で付き合いをもっている人は数少ない。
電話が固定で、家族全員が一つの電話であった時代から、個人個人で電話を持ち、その電話番号は公表していない、となれば、よほど親しくて、登録していなければ、調べることすらできない。
数日前、自分が死去した場合、死亡通知を出す(もちろん、葬儀などはすませたあとに)リストをチェックした。
親戚・知人・友人ではあるが、親戚はほとんどない。兄弟姉妹、おそらく兄・姉は先に死んでいくのだろう。
知人や友人にしても、年齢的に似たようなもの、となると、私の訃報に先立たれている可能性もある。

もう従兄弟・従姉妹の訃報でばたばたしなくていいのかも、と強く思った。

それでも、ちゃんづけで呼ばれるのはくすぐったいけど、若返った。
これだけ、家族葬が一般化するとは、コロナの影響は大きいものである。
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to buy, or not to buy,広辞苑第7版

岩波書店から、毎月「図書」という出版案内が出ている。
以前は購読していたけれど、今は、神保町に住む友人が、書店を見て歩くとき、見つけてはその月の号を送ってくれる。
数日前、2月号が届いた。
30ページくらいの厚さというか薄さというのか、これも自分では決められないのだが、それだけのページ数でありながら、岩波書店の出版物の質の高さ、あるいは内容の固さ、などで読みでのあること!
さっと目を通すなかで、後半の新刊案内のページに目がいった。

辞典のページがあった。岩波書店の名を知らしめす「広辞苑」がある。
第7版とある。
えっ!第7版!
我が家の広辞苑をみると第4版である。
いつの間に第5版、第6版がでたのやら、記憶にない。

なくなったつれあいも、私も辞書は大好きだ。
英語、フランス語の辞書は、二人分でたくさんあった。
私はその昔、短歌の結社に入っていたこともあって、広辞苑はお金がないにも関わらず持っていた。
言葉に疑問が生じると、まずは辞書で調べなさい、と短歌の先輩から言われ、知らない古語にも、使い方が変わった新語にも、まずは広辞苑に載っているかどうか、どう説明されているか、それを確認するのが常だった。

でも、だ。短歌をやめてからもう半世紀、辞書を使うこともほとんどなくなった。
この頃は、携帯の検索というのを使っている。使い勝手は悪い。けれども早い。
その内容に信頼を持てない。でも便利だ。
厚ぼったい広辞苑を、書棚から出して、ページをめくるのに、時間がかかる。
携帯ならほとんど即時だ。
だけど、携帯にのる説明が正しいのかどうか、疑問である。

広辞苑だと、最終の部分に、執筆者、校閲者の名前が載っている。
その分野の専門家、それも信頼できる人たちのお名前だ(と思う)。

「舟を編む」という辞書造りをテーマにした本がある。
辞書造りには、ある仏和辞典について協力したことがあって、協力者として名前が載ったことがあった。
とっても嬉しかったこと、誇らしかったことを覚えている。

さて、第7版、普通版で9900円、机上版で15,400円、
買いたい、けれど、高い。
そして、残りの人生で何度使うか?
そして、第4版を処分することになる。その罪悪感をどうするか?
第7版がなくても、今の生活になんの不都合もない。
本屋さんで見てみよう。と思ったが、本屋さんてないところだ。
広辞苑を置いている本屋さん、どこにいけばいいのやら?
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Robert Badinter氏、死去

わが携帯にあわただしくニュースが更新される。
ほとんどは無視するのだが、今日は何か、気になった。

J'ai tenu bonという言葉がでてくる。
それはRobert Badinterの言葉だった。
なつかしい、というより、なにか昔、そんな名前の人、知ってたような、だったが、気になって、ニュースを読んだ。
フランスで1981年、死刑を廃止した時の法務大臣だった。

ミッテラン氏が大統領にえらばれ、彼の公約が次々に実行に移されていったが、その一つが死刑廃止であった。
そしてそれを担当した法務大臣が彼だったのだ。
彼の発言がある。
”Il n’y aura plus, pour notre honte commune, d'executions furtives, a l'aube, sous le dais noir, dans les prisons francaises.
Demain, les pages sanglantes de notre justice seront tournees."
それは、1981年9月7日のこと、363人が賛成し、反対は117人だった。

死刑廃止は、時の流れでもあった。最後に死刑が執行されたのは、1977年9月10日、ギロチンでの執行であった。

それから、現在にいたるまで、フランスでテロ事件もあったし、少年少女への誘拐殺人もあったけれど、有罪の最高は終身刑、死刑はない。

先日、日本では死刑の判決があった。京都アニメーションの殺人事件である。30名を超す人が無残にも焼死した。
裁判のとき、裁判長が有罪を認めるが、刑については最後に、というところで、死刑であろうことは推察できたし、その通りだった。
しかし、結局、弁護団は上告したので、すぐの死刑執行にはいたらない。

この判決を聞いたとき、よく1人殺しても死刑にはならないが、2人以上は死刑、といった表現を聞く中で、30名以上の人たちが焼死させられたことを考えれば、死刑以外にあり得ない、と思ってしまう。
日本では極刑=死刑であることに慣れているし、死刑判決にアレルギー反応はあまり示さない。

世界でいくつの国が死刑制度を残しているのだろう。
先進国といわれる国では日本だけなのだと思う。

1981年、ずいぶん死刑というものについてその是非を考えたものだったが、いつしか、忘れてしまっていた。
このバダンテール氏、honte(恥)という言葉を使っている。死刑制度は恥なのだ。

日本では2024年の今も死刑制度は存在している。
私はわからない。死刑や自殺、自死といったことにいささか無神経になりすぎている。
ミッテラン政権が誕生したときのあの興奮、もう一度、思い出そう。
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私はやっぱりバカだな、雪かきをして。

数日前から、テレビでもうるさく予報していた大雪注意報、ちゃんと当たった。
都会で数センチの雪でも、大雪と、テレビのレポーターたちが、少ない雪をかき集めて、こんなに降っています、という画面をみながら、我が家あたりはどのくらい降るのかな?と昨日は一日、雪のふる様子を観察していた。

昨日、午前10時、時間をきめていたように、雪が降りだした。
細い糸のような雪だ。これは細雪か?つい谷崎の小説「細雪」を思い出す。
昨日は幸い、風があまり拭かず、まっすぐに落ちてくるといった降り方だった。

それにしても、みるみる地面が白くなっていく。ひとかた、白くなった地面に、それではこれから積もります、というような合図があるような、ないような。
飽きもせず、絶えることもなく、空から雪片がおちてくる。
雪の形がいつまでも細雪ではない。
雪の種類、それが科学的呼び名であるのか、文学的な呼び名なのかは知らないが、思い出すだけ、雪という名詞を出してみる。
細雪は谷崎、春の雪は三島、ほかに雪は?ああ、雪国があった、「トンネルを過ぎるとそこは雪国だった」という川端氏の表現は、東京から新潟に抜けたとき、あるいは長野県から富山県へ抜けるトンネルを過ぎる時、かならず、この表現がでてくるのだ。

今朝、起きてみれば、30センチ以上ある積雪だ。
正確には測らない。というのも、雪は下の温度で、厚くも薄くもなるのだ。
さいわい、ベランダに吹き込んでいなかったので、玄関先と階段、そしてガレージから道路までの部分を除雪すればいい。
道路は、管理事務所の担当だ。
今日は別に外出予定も、来客予定もない。除雪をしなくても別に差しさわりはない。

が、しかし、だ。このまましておけば、嵩は低くなるかもしれないが、湿気を含んで、重い、粘性の雪になる可能性が高い。
やっぱり、朝の寒いうちに、雪が新品の間に雪かきをしなければならない。
階段のゆきかき、下からとりかかれるものなら、ずいぶん楽なのだが、あいにく、上から腰をしっかりまげてすることになる。

少しの雪ならちりとりですれば、あまり重くなく、雪をはらうのもやさしい。
しかし、30-40センチの雪ともなれば、塵取りでやっているのではとてもはかがゆかない。
大型のスコップを使う。
直線的にぐさっと雪のなかに突っ込んで、雪を掬い上げる。
重い。そして雪が離れない。べったりとスコップにくっついたままだ。

12段ある階段、4段ずつ3回、5段x2プラス2,6段x2,と休み休みでする方法を考える。
一度に12段、以前だったらそれはできた。でも今では無理な話だ。
それにガレージ前のスペースも除雪しなければ、車をだせない。

前の道路の除雪にはいつきてくれるのだろう。と思っていたら、11時すぎにきてくれた。
どうも優先度がさがったようで、以前、私が仕事をしていたころは8時、9時にはきてくれていたのに、と思うが、今は暇人なのだから、まあかまわない。
階段だけでぐったり、もう外出はしないでおこう、だからガレージ前は明日にまわそう、と思ったが、雪はそのまま残しておけば、硬くなる。湿気も含んで、重くもなる。もう春の雪で、粘性があるのだ。

外出しての用事というのは、新聞を買いに行くという用事だ。毎日、6キロ下ったところのコンビニに新聞を買いに行く。
明日は歯科の予約があるけれど、今日はなにもない。新聞は必ず読まねば罰を受けるというものでもない。

11時すぎに管理事務所の除雪車が道路をしてくれ、食料品配達の車が通っていったのもみえた。
宅急便などは、昨日、今日の配達はしない、などとテレビでみたが、この食料配達の車は関心に、とそろそろ、そういうサービスを受ける場合の参考にする。

よし、昼ご飯を食べて、そのあと、体力が戻ったら、ガレージ前をして、新聞を買いにいくかどうか、決めよう、などと考えたが、昼ご飯を食べると、それだけで疲れて、もう出かける気にはなれそうにない。
と、昼飯前にガレージ前を除雪、車で新聞買いに出かけることにして、除雪を始めた。

車をどうにかバックさせ、すこし回転して道路に出す、というのに必要なスペース分だけ除雪した。
20年近いキャリア、車を動かす部分はちゃんと除雪されている。

我が家からコンビニまで、別荘地の私道、村道、県道、そして国道と通る。
それぞれに担当する業者が違うらしいが、やっぱり国道、県道、村道とできが異なる。
下まで降りれば、そこは除雪のし残しもあるけれど、もう舗装がみえて、滑らないか?という恐怖心はもたなくてすむ。
村道が一番大変だ。というのも、急な坂道、カーブ、そして除雪残し、これがシャーベット状になったり、明朝、凍結していると、どうなるだろう、と思いながら、セコンドに落としたまま、慎重にブレーキ併用で降りていく。

新聞は受け取った。しかし、もう読む気力も残っていない。
朝刊だけの土地に住んで、その新聞を午後に読むとき、これは新聞ではない、旧聞だ、と思う。
旧聞になるのがわかっていて、除雪に腰をいため、そして恐怖感でちびりそうになりながら、やっぱり新聞を買いに行く私、やっぱりバカだわ。
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ママハハ、亡くなる

ほんの20分ほど前、携帯電話が鳴った。
だれから?見れば96歳のママハハの名前がある。
病床について、もう長く、人と接しないから、話す機会が無くなって、声が出ない、と電話での交流もなくなっていた。
先年11月に容体が悪化して、もういつ亡くなっても不思議はない、と看病している長男から先日、連絡があったばかりだった。
それでも、私が週に1回書き送る手紙を楽しみにしていてくれる、というのは私にとっても救いだった。

今日は雪予報、東京は夕方だというが、当地では10時に降り始めた。
いつもなら9時すぎには郵便局へ行くのだが、今朝はなぜか1時間寝過ごして、郵便局についたころ雪が降り始めた。
関西のママハハの家に手紙が届くのは、水曜日かな?と思いつつ、この手紙は必ず、郵便局の窓口に渡す。
今朝も、いつものにこやかで親切な窓口の方にお願いします、と渡して帰った。

今日は風もなく、雪はしんしんとまっすぐ落ちてくる。
ベランダに集まってくる鳥たちを観察しながら、新聞を読み始めたところだった。
携帯電話が鳴る。だれからの電話、というのを言ってくれるのだが、聞き取れない。
見れば、ママハハだ。

声はママハハの長男である。
ママハハの死を告げる電話だった。今朝、7時半ごろ、様子を見に行ったときにはもうなくなっていた、と。

ママハハとは、私が22歳の時に知り合った。ママハハの姑にあたる人が、私の縁談を紹介してくださったのだが、そのおしゅうとさんと私は九州、縁談の相手は関西、お見合いには関西まで来てくださいというので、行くことになったのだが、当時は、お嬢さん一人をホテルにお泊めすることはできない、と、その仲人をしてくださる長男のご家庭が大阪にあったので、そこに泊めていただいた。
おしゅうとさんの仲人趣味に付き合わされる長男夫婦も迷惑なものだが、縁談の相手方とも知り合いで、というので、お見合いにも同席してくださった。

それからいろいろがあって、この縁談は、いったん結納までしたのちに、先方から破談ということになった。
大学を出たて、就職もせず、結婚に備えていた私、結局、東京へでて、兄の家に居候しながら、九州へ帰ることはしなかった。

その後、私に同情してくださったママハハとの交流が始まったのだ。
それから50年以上、長いお付き合いになった。まるで母親みたい、ということで、ママハハと呼ぶようになったのだ。

もちろん、ママハハだけではなく、ママハハのお連れ合いもとても親切にしてくださったのだが、そのお付き合いは、経済的援助だけでなく、本当に親身なものだった。

短歌にも導いていただいた。

とうとう、母とよべる人はいなくなった。実母、そしてフランスの母、ママハハ、寂しい!
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上川大臣、神対応なさらないで

麻生副総裁が、地元福岡県で、上川洋子外相について、女性蔑視の発言をした、という記事、あるいはテレビでその場面をみて、ああ、福岡の男ども、なんてことを言う、と思った。

まずは、麻生氏は副総裁ではあるが、現内閣にはポストがない。
だから、閣僚の名前をちゃんと覚えていない、というようなこともあるかもしれないが、名前を間違うなんていうことは、ましてや、外務大臣というポストの人なのに、なんというミスをしたのだろう。

また、最初の女性外務大臣、なんて、田中真紀子、川口順子(かわぐちよりこ)の2人がいたにも関わらず、その記憶というのか、知識が欠けているというのは、長く政治家をしているのに、と
麻生氏の記憶力、というか知性のなさを感じる。

知性のない発言は続く。
「そんなに美しい方とは言わんけども、英語できちんと話をし、外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約をとっちゃう」というのは、誉め言葉を言うつもりで、先の部分をちょっと脚色をいれたのだろう。

それに対して、上川大臣は、「様々なご意見やお声があると承知しているが、どのような声もありがたく受け止めている。国民に理解され、指示される外交を展開していくことに専念している」という発言(記者会見)をして、神対応をみせた、という。
神対応だろうか?
これが、立場の違う人からの発言だったら、いいのよ、ほっときゃ、ですむかもしれないが、政治家歴何年になるのだろう、首相も経験した麻生氏の発言なのだ。

「麻生副総裁、あなたの発言は不愉快です。謝罪を求めます」となぜ言わない!
失礼極まる発言ではないだろうか?
公共の場で、カメラもはいったところで、「大変礼を欠く発言をいたしました。深くお詫びを申し上げるとともに、あの一連の発言を撤回します」と言わせなさい!

こうやって、むにゃむにゃ、麻生氏の発言だから仕方ない、とか、老人のたわごとだよ、とか、中途半端に許容するから、こうゆう発言がまかり通るのだ。

と、一人、怒り狂っている。



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政治家とは

なんだか、この頃の政治家の発言にいらいらしている。
やたらと「させていただく」が多いのは以前からのことだが、「発言を控えさせていただきます」と言われると、「だれから控えろと言われたの?控えなくていいから」と言いたくなる。いっそ、「自分に不利になりますから、発言を控えます」とはっきり言えばいいものを、と言いたいのだ。

この政治家の「させていただく」多用は、この20年くらいのことだと思うが、謙虚なのか、人を見下しているのか、なんとも判断できない。

小泉元首相などの表現方法は、単語で切って、ごたごたがなくて最初は爽快に聞こえたが、なんのことはない、文章力がなかったせいらしい。
息子もその血があるらしく、外国でも、それを使って、記者との会話で恥をかいたことがある。

政治家の表現の中で、最も多用され、本当にそうなのか?と疑問に思うのが、会計責任者、あるいは秘書にまかせていた、という表現だ。
任せていたから、自分は知らない、ということだが、もしかしたら、そうかもしれない、という事象に遭遇したことがある。

もう何十年も前、まだ小選挙区ではない時代だった。
東京で選挙の手伝いをしたことがある。金・土・日の3日間、アルバイトである。
9時から5時まで、とはいいつつ、夕方はもっと遅くまで働いたけれど。
私の仕事は、事務所で電話を受けたり、文書の発送など、時には、よほど大切な後援者なのだろうか、毛筆で返事を、と言われ、代筆したこともあった。
その時、すべての指図は、事務長というのか、いつもの秘書たちではない人が現れ、選挙の一切を指図していたけれど、ある日、忽然と姿を消した。
事務所に現れなくなったのだ。私はアルバイトではあるし、仕事を指図してくれる秘書がいたから、別に困りはしなかったが、その理由を秘書に聞くと、ちょっとやばいことがあったから逃げてもらった、などと言ったのだ。やばいこと、その内容など、アルバイトの分際で聞けはしない。
候補者自体が著名人であったから、やばいことの内容は、暴力団との関係とかではなく、なにかお金に関することなのだろうと思った。

最近、「野中広務、差別と権力」(魚住昭著、講談社)を読んだ。
私の歳であれば、野中広務の名前を知っているだろうが、官房長官として、辣腕をふるった政治家である。
京都府の選出、地方の議会を経て国政に移り、官房長官まで上り詰めた、異色の政治家として有名だった。
私は政治にそんなに関心がなかったから、そういう存在がなぜ異色といわれるのか、そして官房長官というポストの重要性を知らなかった。

遅まきながら、しっかり大人という年齢の半ばすぎを過ぎてから、いくらかの関心が芽生えたし、その動きをチェックするようになったのだ。
日本の政治の未熟さを憂うとき、外国では、とすぐに外国を持ち出す外国信奉者であったため、日本の政治の悪いのは、中選挙区のせいだ、と思い、小選挙区制が取り入れられたときには、これで日本の政治もすっきりしたものになる、と簡単に思っていた。

しかし、日本は2大政党ではないし、選挙区には、2世、3世、まるで封建時代のような、家業としているところがいくつもある。
今住んでいる群馬県、わが選挙区は父親が元首相、そしてほかの選挙区にもそんな議員がずらっとそろっている。
高校時代まで住んでいた九州では、中選挙区の時代であるが、候補者(自民党に限るが)全員が大臣経験者で、大臣区と呼んでいた。
なんのことはない、この群馬県は首相県なのだ。

「なるべきしてなった」という表現からしてみれば、政治家の子供、孫が家業として継いでいくのは、かれらにとっては「なるべくしてなった」のかもしれない。
だが、かれらが政治家になるとは限らない。その程度によっては政治屋で終わるのかも。

ああ、何を書きたいのか、わからなくなった。

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子供ってだれのもの?

この頃、昔の常識、今の非常識、と思わざるを得ない現象に直面して、昭和から生きている人間の私としては、混迷の極みである。

今回は生殖の問題だ。
少子化の問題が日本のみならず、各国で問題視されるようになってきた。
隣国韓国然り、あの大人口をかかえる中国でも、一人っ子政策をやめたにも関わらず、子供の数が減り、一挙に老齢化が問題視されている。

今回、ショックを受けたのはフランスだ。
フランスは、昔は、カトリックの国だから、子供の数が多い、なんて言われていたけれど、それは政府が手厚い家族政策をとっていたこともあっての結果だった。
日本だと、貧乏人の子だくさん、という言い方もあるが、それも一つの真実をあらわしている。
どちらかというと、貧しいといわれる国、たとえば、アフリカやインド、今回のパレスチナでも、やけに子だくさん家族がいることがみてとれた。

その子だくさんの理由は、各自、考えることにして、フランスのケース、である。
フランスの家族を知ると、高学歴、高収入、という、恵まれた人たちが、けっこう子供数が多い。
そんな家族では、妻そして母という立場の人が、家庭に収まっているかというと、そうではない。
3,4人の子供がいることはごく自然なことだった。

それなのに、最近は、少子化で悩んでいる、というからびっくりだった。
そして、”子供を持つ”、あるいは、”子供を持たない”(中絶)、についての新しい動きをつきつけられている現実がある。

フランスで人工妊娠中絶(avortement)が認められたのは、1975年のことであった。
それまで、望まない妊娠をした場合、中絶をするのに、フランス国内で違法の中絶手術を受ける、中絶が認められている近隣諸国にいって、手術を受ける、の手段があった。
いずれにしても、国内では違法のことを受けるのだから、費用が高い、安全性が保障されていない、といった問題もあり、女性にとっては大変な苦労であった。

それからの紆余曲折、いろいろあったことと思うが、今度、憲法にも記されるかもしれない、という。
しかし、それは中絶ということだけではないはずだが、産むことについての自由と、いうのだろうか、"liberte garantie"という表現で、憲法に記されることになるだろう、という。
まだ憲法改正にまで至ったわけではなく、その可能性が強いということらしいが、憲法にまで記されることになるのか、とその動きに驚きである。

子を持つ、ということの、もう一つの驚くべき進化は、体外受精がある。
不妊で苦しむ人たち、不妊の原因が男性、女性、いづれにしてもだ、それが解決される道もできている。
正式に結婚しているカップル、結婚届けはしていないが実質的なカップル、そのカップルが不妊で苦しんでいるときの解決策なら、まだ旧世代も納得いくのだが、今では、不妊、単身であろうと、借り腹、あるいは、第三者の精子、卵子の提供を受け、かつまた別の女性の借り腹という形での出産もありうるのだ。

以前、調停員をしていたとき、夫婦の問題の調停で、子供をどうするか、ということがテーマになることが多々あった。
相調、男性は、必ず、子供を”愛の結晶”と言っていた。
私は、いささか冷めた観点で、愛の結晶というより、男女の性交渉の結果である、と解釈していた。

フランス人の父と呼んでいた人は、敬虔なカトリック信者で、75年の妊娠中絶法に反対していた。
受精の時から、それは命である、というのだ。
妊娠中絶を認める期間をどれだけにするか、ということでもめていたときである。
私は、受精のときから、というのには反論していた。
日曜日にも狩りにいく人をみて、なぜ、日曜日に殺生をするのか?と問うたとき、動物には魂はないから狩りをしてもいいのだ、という返事だったが、受精の瞬間から魂があるのだろうか?と疑問だったのだ。
それは、とうとう、私自身が子を産むという経験をしなかったこともあるだろうが、生命の神秘という、それは神聖なことだが、科学的な、あるいは母体を考えたとき、なにが正しいか、を問えば、答えは一つではない、という事実もあるからだ。

そして、いまでは、愛の介在しない、女性の欲求のみの妊娠も可能なら、タイで同時に多数の女性に妊娠をさせ、同年齢の子供を産ませたケースなど、恣意的な子づくりもあって、出産というのが、ただの生物的なことになってしまっている。

子はどうなるのだろう。
親ガチャなど、ということばが流行っているが、子は親を選べない。

先日、フランスの女性が、人工的に授精をするのに、精子は選ばない、偶然の結果でいいのだ、と言っているのをテレビで見た。
デザイナーベイビーというのも、心情的に受け入れらないが、血液型、フィジカルな条件、なにも注文を付けない、というのは、出産、その後の成長の段階で、本当に問題は生じないのだろうか。
自由というのは、やっかいなものでもある。
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生活の進化が今では不便

地震から13日目、あすで2週間になる。
避難所、あるいは傾いた自宅での日々を垣間見ると、生活の変化を進化と思っていたけれど、それがいざ、災害となったとき、そうではない、ということに気づかされる。

それは昔に戻れというのとは同義語ではないけれど、昔の杵柄ではない、昔の名残が捨てられない理由も理解できるのだ。

まず、新聞紙、新聞ではない、あくまで新聞紙、これが捨ててはならないものの筆頭、とは言いすぎかもしれないが、避難生活の各所に登場する。
まず、保温効果だ。着の身着のままで避難した人たち、あわてて屋外にでたこともあり、外套さえ羽織っておらず、室内ですごしたままの衣服、という人々も多かった。
避難所といっても、暖房完備ではなく、当初は暖房もなかったところもあっただろう。
そんな中、衣服の中に、新聞紙をいれる、それで保温効果がありますよ、とテレビでその道の専門家がいい、テレビ局のメンバーがおおきくうなずく、という場面もよく見た。
新聞紙の保温効果は、そうなのだろう、と思う。
以前、よく見かけた路上生活者の皆さんは、その身、あるいは体の周辺に新聞紙をよくおいて、利用していたことを思い出す。
保温に使うというのは、新聞のある国では一般的で、最初に行ったころ、パリの路上生活者の手元に、ルモンド紙があって、フランスの路上生活者はインテリだ、と早とちりをしたことがあった。

しかし、この新聞紙、今や、希少物質となっているところもある。
わが家の周辺はそうである。
つまり、新聞を購読している家が減っているのだ。
人家の少ないところでは、新聞の配達サービスがないところもある。
我が家周辺は、以前は、下の集落まで毎朝取りに行っていたけれど(2キロあった)、それがだめになり、別荘の管理事務所にかわり、そしてそこもトラブルがおきてダメになり、郵便配達で受け取るようになり、その不便さにいやけがさして、つれあいはPCで読むからいいといい、私は下のコンビニまで6キロを車で買いに行く、ということになった。
読後の新聞、これは新聞紙という存在になるが、これをどうするか、たまればごみの日にまとめて出すこともあり、夏場にきた別荘族の人から少しくださいと頼まれることもあり、野菜の包装紙ともなり、冬場は友人のストーブ利用者が焚き付けにほしいと、束でもっていく、となかなか利用価値が多い。

テレビをみていると、入り口のところの靴脱ぎ場に新聞紙が敷いてあったり、中では包装紙として使っているような雰囲気もあったりだ。
地震後、新聞配達など、途絶えていることだろう。
そうなると、本当に新聞紙が貴重なものになる。(トイレットペーパー代わりには使わないだろうが)
新聞もペーパーではなく、ディジタル化で、スマホで読もう、なんて言われているが、紙の利用法がこんなにも多いのですよ、と前時代人として強調したいのだ。

我が家は電気にほとんど頼っているけれど、全電化ではない。
東日本大震災のおり、全電化ハウスに住んでいる人が、トイレの蓋があかない、というところから不平を言っていたけれど、玄関も開かない(顔認証の場合)、すべてに不便になったとか。
そこまではいかないにせよ、なるべく熱源の種類を一本化して、となると、ヒーターの類も、点火は電気である。
東日本のとき、計画停電の不便さから、脱電気ではないけれど、電気ではない、乾電池やマッチなどで着火するストーブも購入したけれど、それから10年以上たち、いつか、登場する機会もなくなった。

もう使わないだろうから、捨てようと思っていたものがいろいろある。
この冬は、湯たんぽもそうだ。早めに電気毛布(シーツ)を出したこともあるが、湯たんぽを使わないのに場所取りね、これ捨てなきゃ、と言っていたけれど、こんなとき、電気がこなければ、湯たんぽ利用しかない。お湯はボンベ式のガスコンロ、やはり、今は使わないヤカンも残してある。
炊事用具を、ほとんどIH仕様、そして少人数用、などに替えてきたが、そうではなく、直火可、というものも必要不可欠なのだ。

雨水をうけるためのバケツや洗面器、これもやっぱり必要な品だ。
昨日のテレビでは、外国人の避難者たちが、ボトルから直接水を顔に流して、洗顔していたけれど、ここに洗面器があれば、あんなに無理なやり方でなくても洗顔できたのに、と思った。

この頃、タオル、それも温泉などに泊まったときにいただく薄手のタオル、これを持っている人は少なかろう。
これがまたすごく役に立つ。
自然素材を使いたい私は、このタオルで体を洗う。拭いたりするのは、すこし厚手になるけれど、高価な刺繍いりのバスタオルなどは来客用である。
先日、村のお店で買い物をしたとき、お年賀です、とこのタオルを2枚いただいた。昨年、フランスへ出かける前、日本のタオルをお風呂やシャワーで使います、と言ったとき、お年賀の残りですが、と数枚いただいたのだ。その記憶から2枚くださったのだろう。

コロナの初期、自分でマスクを作るのがはやり、母の残したガーゼがあったのを押し入れにしまっていた。こんなものも捨てられない。緊急医療品という中にいれられるものではないが、やっぱりガーゼも捨てられないものの一つだ。

こうしてみると、今年には捨てようと決心していたものが、何も捨てられなくなる。
ごみ屋敷になりそうだ。
そうしてとっておいても、今回の地震、あるいは東日本、阪神・淡路、どの地震をみても、その直接の被災者は、なにも持ち出すことなどできていない。

こんなものも必要だろう、といろいろ思っても、今は個人からのものは受け取らない。
まだ、水も電気もないところが多い、とのこと。ぬくぬくといることが心苦しい。

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トイレの次はトイレットペーパー

トイレというのは、便器だけですむわけではない。
シャワー式にすれば水は不可欠、それに旧式であれ、シャワー付きであれ、トイレにペーパーはつきものだ。
まあ、近代的トイレでは、ペーパーレス、扇風機方式というのか、暖かい空気を事後に出して、乾燥させるという方式もあるけれど、我が家などはその機能は不要です、と風なしを選んだ。

能登半島のトイレに暖風方式があるかもしれないが、ごく少数だろうと、それは無視することにして、さて、トイレットペーパーだ。
この地震後の、いかに不便、不足を補っていくか、というところに、暖気を体に保つため、新聞紙を利用する、というのがある。
新聞紙の利用の一つ、と盛んに言われているが、私の世代、新聞紙がトイレットペーパーとして使われていたことを思い出させた。
新聞紙のトイレットペーパー代用、これはレポーターたちのだれも口にしない。

そう、昔、汲み取り式だったトイレに、何と呼んでいただろう、塵紙(ちりがみ)というのが一般的だったと思うが、薄茶の紙の束がおいてあった。今のトイレットペーパーとは違い、けっこうしっかりしていた。
安価なものであったとは思うが、時々、それがないとき、「便所に紙がないよ」と叫ぶと、新聞紙1枚が差し入れされ、それを幾回もおり、お尻をふくのに適当な大きさに切り分けるのだった。
すこし、揉んで柔らかくしなければ、ちゃんとふき取ることはできない。
がんばってよく揉むと、手に印刷インクがついたものだった。

能登半島、昔風の生活をずいぶん守っている様子もあるけれど、トイレはちがうだろう。
流す水がないのも困るけれど、トイレットペーパーがない、というのも大困りだ。

日本では普通には、トイレットペーパーなら流せるけれど、これが世界共通のマナーと思ったら大変だ。
今回、人体からの排出物(大・小便)は水で流せるようだが、ペーパーなどは流さないで、別にごみ袋などにいれているようだが、このやり方、いろんな国でやっている。
私が旅行した先では、ヨーロッパではギリシャがそうだった。
友人宅に泊まっていたが、ヨーロッパの一国ではあるし、警戒もしないで、排出物と一緒に流していた。友人がそれに気づいて、便器のそばにある容器にいれてね、と注意してくれて、あ、そうだった!と気づいたのだ。
アジアではミャンマー、ラオス、ヴィエトナム、などがそうだったと記憶している。
アフリカでは、便器すらないようなところが多かったので、トイレットペーパーなど、自宅にはあったけれど、都市部の大ホテルはともかくとして、ペーパーがなかった。

トイレットペーパーというのは、特殊な仕様になっているのか、ほかのものではなかなか代用できない。たとえばティッシュペーパー、柔らかいのはいいが、お尻にくっつくし、トイレには流せない。
それ以外の紙というのは、長く代用したことがないので、使い心地などはわからない。
ただ、トイレットペーパーと銘打った紙以外は流せないことは確かだ。
拭くだけ、なら、もちろん、布でもできるけれど、この場合も流すというのはダメだし、まあ、ごみ袋にいれるのなら、代用にならないわけではない。

アフリカにいるとき、生活必需品として、トイレットペーパーは常にある一定量は準備していた。
国産品というのもあったようだが、トイレのことに神経質な私には論外、フランスからの輸入品を購入していた。

考えてみれば、私が購入していたトイレットペーパーは、つれあいと私、来客用のトイレ用、と限られた人数分だったけれど、現地のスタッフはどうしていたのだろう。今になって、その配慮をしていないことに気づいている。
家を出るときは、トイレットロールを1個、一応、準備して、出先でのトイレ使用時に持ち込んでいた。必要とする場合もあり、しない場合もあった。

というわけで、被災地の方々、トイレットペーパーも必需品として要望がでていて、至極もっともの感をもち、ああ、我が家の予備のペーパーを送れるものなら、と思ったものだ。

我が家にも準備している。我が家の”もしもの場合”、というのは、考えてみれば、太平洋岸の地震、津波で、海岸サイドの道路が使えなくなった場合を想定している。
つまり、話によれば、静岡県を中心に、関東と関西を結ぶルートが断絶、静岡には製紙工場がたくさんあり、ここが被災すれば、トイレットペーパーが品不足になるのは火を見るより明らか、というような説を信じているからだ。
そのほかの地方が被害を受けていないという前提のもとに、1,2か月分の紙製品を準備するように、という説を、自分自身に対する危機管理で、これで十分といえるかどうか、は別にある程度準備している。

すべての準備品において、能登半島の被害をみていると、準備しても取り出せるのか、おおいに疑わしい。
なんだか前提がすべて、とても楽天的で、被害はたいしたことはないような、そんな設定にしか思えない。

それでも、わがトイレには、スーパーから買ってきたまま、12ロールくらいがビニールでくるまれたまま、どんとおいてある。
上品に1個、2個で予備用、とはいかないのだ。それだけのロール数があって、直接目にふれることで、長い人生の不安要素をカバーしている。

避難所にいくときも、きっとロール数個を持参しなければ、と、その日のための必要物を頭のなかでチェックしながら、念押しをしている。

テレビの映像で、避難所を見るたびに、トイレは大丈夫?ペーパーはあるの?水は流せるようになったの?掃除はだれがしているの?一度に何分くらいいてもいいの?いろいろ心配している。

現場中継にはいったひとたちは、どこで寝泊まりしているのだろう?
トイレや休息、宿泊はどこでしているのだろう?などとも考える。
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