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私は生き残った(6)1ドル360円時代

昨日、母を通じて100万円借りて海外旅行をした、と書いたけれど、この100万円、今ならどのくらいの価値があるのだろう。100万円の価値だ。

つまり、100万円が外貨としていくらになるか、ドル換算いくらか?が問題だ。
当時は、1ドル360円と決まっていた時代、そして、一人一回、1000ドルしか購入できなかった時代だ。

とはいえ、つい何年か前には、1ドル100円を切るかどうか、などが話題になっていたのに、昨日の終値で154,40円なんて、なんてこった!
政府はこんな円の安値を、輸出には益とばかり、laisser faireである。

もちろん、この借りた100万円のほか、自分で倹約に倹約を重ねて貯めたお金もあったけれど、2,30万だったと思う。

1000ドルに交換しても、それを全部自由に使えるわけではない。
往復の旅費の一部をドル供出という形で払うことになっている。
私の場合、往は、JTBのシベリア経由という方法をとった。
これは横浜から船でソ連(当時)のナホトカにわたり、その後シベリア鉄道で2日、なんという町だったか、そこから飛行機に乗り換え、モスクワに。モスクワで2泊ほど、そして、そこからウィーンに飛び、その後は各自の目的地に行く、というプログラムだった。
これがヨーロッパ行の最もかどうかはわからないが、安いコースで、時間に余裕のある若者に人気だった。
この旅費の一部はドル払い、結局、私がドルのトラベラーズチェックにしたのは800ドルだったような記憶がある。

帰路は、ちょっと頭を使ったが、アリタリア航空のチケットを入手、not endorsableといういわゆる売ることはできない、というチケットだ。しかし、アリタリアである限り、出発地からいろんなところで乗り降りできる、という、私にはそれで充分というチケットだった。これは日本円だけですんだような記憶がある。

トラベラーズチェックにしても、日本の銀行のものでは信用がない、換金できないかも、という話があって、当然American Expressアメックスである。アメックスなんて表現は当時使うほど、慣れてはいなかったので、常にアメリカン・イクスプレスと発音していた。
100ドルの分は2,3枚、あとは50ドル、20ドル、10ドルのものもあったのかもしれない。
このアメリカン・イクスプレスのチェックが、命の次に大切なもの、とベルトというより、腹巻に仕込んで、外から見えないように、ウエストが膨らんでみえないように、いろいろ苦労したものだ。

通貨の価値は、その国の評価そのものだ。
それに、のちのち、日本円で旅行ができたり、日本のクレジットカードで決済できる現実を経験すると、日本もえらくなったものだ、と痛感したものだが、現在の150円台をみながら、そのうち、日本円では受け付けられませんという、そんなこともあり得るかも、という思いすらする。

この頃、ドルで旅行することがなくなった。
ほとんどがヨーロッパなので、ユーロで決済する。
すこしだけ、ドルが安いときに、アジアを旅行するために手当したものがあるが、現金を長く持っているというのも、旅行の場合、いささか問題発生である。
つまり、今年、日本では7月にお札が変わるけれど、それが外国に浸透するまで、旧札が通用するのか、新札が受け入れられるのか、はっきりしないことがある。
もう20年以上前にいたアフリカで入手していたドル札を、数年前、アジアの国で使おうとしたら、現地の偽札判定機に引っかかってしまった。ドルが変わっていたとは、知らなかったのだ。
銀行ならともかく、現地のホテルやお土産屋さんで、これは偽札ではない、と証明することは難しい。

もちろん、50年以上も前のこと、物価もまったく違うけれど、1ドル360円もしてたのに、3000ドルくらいで、半年うろうろできた、そんな時代がなつかしい。
若者よ、旅に出よ、だが、この頃の若者は、パック旅行で、いいホテルに泊まったり、レストラン探訪をしたり、とても贅沢だ。
今、昭和カムバックというのか、昭和がブームというけれど、昭和のドル札、もしかしたら、貴重品として、1ドル札が500円くらいになるのかも。


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私は生き残った(5)独身で

ようやく、この冬の寒さをしのぎきった感のあるこの数日だ。
シーツの下の電気敷布が気分を損ね、また上の掛布団の重さが我慢できなくなった。

こうして生き残った感を感じているなかで、母の妹のことを思い出している。
母の兄弟は数が多いのだが、この叔母は、終身独身のまま、生涯を終えた。
記憶していることでは、この叔母は戦時中、結核を患ったとか?それで結婚とは縁がなく、私が知っているときには、生協のような組織の事務員をしていた。
当時は、この叔母は実家で暮らしていたようだが、勤務先と我が家が近く、時々、我が家に寄ることがあった。
生協という勤め先のおかげか、当時、価格が高くて、買うのもぜいたく品になっていた砂糖や、その他の食料品、そして、子供たちにはうれしい、駐留軍からのお菓子などが手に入ったとき、我が家にもってきてくれていた。

いつも地味な、まるで事務所で着る、当時は労働着などもあったと思うが、紺色の木綿の上下を着て、およそおしゃれとは縁のない恰好、化粧っけも全くなかった。
冬には、我が家のサンタクロースになって、子供むけの(当時は姉、従姉、私、弟)の遊び道具などを持ってきてくれたものだ。
クリスマスを祝うとか、クリスマスプレゼント、といった行事は、まったくない時代だったのに、なにか、少し、華やぎがあったのは、この叔母のおかげだった。

この叔母は、こういうふうに、我が家、とくに子供にとって、神様みたいだったけれど、なぜか、夕食の席を一緒にすることもなく、家のなかに上がるということもなかった。
なにかしら、便利な存在、といった扱いが感じられた。
それが、独身、つまり当時は嫁かず後家、と呼ばれていたが、そういう軽く扱う気持ちが、特に父の系統のなかにあったような気がしていた。

この叔母は、身を飾ることもせず、一切、無駄遣いをしない人だったが、気前がよかった。
私がピアノを習った従妹は、音楽大学を卒業したとき、就職しないで、自宅でピアノを教えるという道を選んだとき、この叔母がピアノを、それも新品を贈ってくれた。
当時、ピアノの価格というのは、ずっと変わらず88万円だったと覚えている。当時の88万円というのは一財産であった。

その後もいろんなところで、お金を融通してくれたり、プレゼントとして与えてくれたりしたようだ。
私については、ヨーロッパ周遊を計画したとき、母が100万円を準備してくれたのだが、母曰く、この叔母から借りたのだそうだ。とりあえず、母が借り、返却もしていくから、私は母に返していけばいい、ということだった。

この叔母は渋ちんではなく、これは!と思うとき、お金を使うのだった。
姉がロンドンで結婚式をあげることになったが、その時、母の費用は姉とその結婚相手が出してくれるというのだが、ほかに自費で出席できる人はいなかった。
そこに、手をあげたのがこの叔母である。
結婚式ついでに、ヨーロッパを少し回りましょうよ、と、義兄のサイドの両親ともども、フランス、スイス、イタリアなど、初の海外旅行をしたのだ。

その旅行がきっかけで、母が海外旅行に目覚めたのは当然で、海外に住む姉たちが毎夏休みに、帰国前に立ち寄るところに、日本から参加していたが、この叔母もそういうチャンスがあればぜひ、と思っていたようだった。

ある時から、私が毎年、海外へでるときに、母が同行することが常となっていたが、ぜひ、つれていってほしい、という話になった。
結局、母は体調不良で参加できず、それなら、この叔母も遠慮してくれないか、と思ったが、ぜひに、というので、フランス、チュニジアという旅行をした。

相変わらずのさえない恰好、当時、すこし、フランスかぶれの私としては、もう少し、しゃれていてほしかった。
そして、背中をのばして、せめて歩く姿くらい、しゃっきりしてほしかった。

パーキンソン病が始まっていたとは、まったく知らないで、チュニジアの遺跡を歩くときも、もっとしっかり歩いて、とはっぱをかけたりしていた。
この旅行が叔母にとっては最後になった。

叔母は叔父(彼女にとって弟)の家族と同居していて、そこで最後まですごしたのだが、最後まで地味で、堅実な生活だったらしい。

実家や兄弟姉妹を頼ることなく、自立して、時には兄弟姉妹のみならず、その子供たち、つまり甥姪たちを援助して、とても潔い人だった。
恩を受けるだけで、なんら恩返しもしないまま、感謝の気持ちを伝えることもなく、と今になって思いも強くなる。

生き残るためには、こういう人の情け、援助を数知らず受けている。
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私は生き残った(4)当時の娯楽

11人家族の下から2番目、なかなか生きづらいものがあった。
いじめられたり(心理的にはあった)、疎外されたりはなかったけれど、生活は祖母を筆頭とする、年長者最優先、もし、子供が主役になるとすれば、男児たる弟が最優先だった。

小学校の時代、集団登校はないけれど、近所の児童と誘い合わせての登校だったけれど、下校となると、学年によって差はあるし、下校してから、近所の子たちと遊んだ記憶があまりない。
帰れば、家の中には年寄、それも女ばかりがたくさん、口うるさいだけで、遊びの相手ではない。
では、どうしたか、家の中で遊ぶこともあったが、隣家の子供、それが男の子ばかり3人だった。一番上の子は、私より1歳、2歳上、2番目は2つほど下、3番目は弟と同い年だった。
隣家と我が家のあいだに空き地があって、外遊びの場所になっていた。何をしたのだろう。まったく覚えていない。
しかし、遊び道具などもないなか、ごはんですよ、という声が、隣家か我が家からかかるまで、走り回ったり、しっかり体を動かしていた。

家に入れば、テレビはない、ラジオは1台あったけれど、子供の聞くものではなかった。
きっと夕食までの短い時間に宿題をやっていたのだろう。
夕食後、何をしたか?これも覚えがない。

今、思い出すのは、夕食後に映画館に時々行っていたことだ。
当時は2本立て、3本立てというのが普通で、夕食後、最後の回は、2本か1本か、安い料金で見ることができた。母が映画好きで、その割引料金にそろって行っていた。
最初のころ、小学校にあがっているのに、幼稚園生と無料で入るようなごまかしもしていたが、私はそもそも成長がはやく、大柄だったので、1,2回でそれは無理と、子供料金を払っていたようだ。

東映の時代劇が多かった。中村錦次郎?や大川橋蔵、などが主演した映画をよく見ていた。
当時はそうとう時代劇が流行っていたようで、貸本屋さんから借りてくる本も、山手樹一郎?という作家の本が多かった。
世の中は狭いけれど、大人になって、ある短歌の結社に加入したとき、その主要メンバ―の女性が、山手樹一郎の娘さんであった。

ゲームもなければ、なにもない時代、トランプやかるた、などはあった。
トランプゲームは、ババ抜き、七並べ、神経衰弱、ナポレオンやなんとか富豪などのゲームをしたのは、高校生になってからだ。
頭を使うのは年長者にかなわなかったが、神経衰弱は、同じカードをみつける遊び、記憶力のよかった私はよく勝っていた。

のちに、母が勉強をがんばったご褒美に、と百人一首を買ってくれた。これは今でも持っている。
箱入りの豪華版、といっても箱はプラスチック、高価なものではなかったけれど、私のもの、というので、うれしくて、百首覚えた。
私に勝てるのは、母と長姉だけだった。しかし、今は昔、もう数首しか覚えていない。

引揚者の家庭で、昔からの蔵書などはなく、子供用に新しく買うという余裕もなかった。
しかし、母がどこからか手に入れたのか、借りてきたのか、私が本好きだったので、若草物語、あしなが伯父さん、アルプスの少女、など夜、寝る前によんでくれたりしたものだった。
若草物語のジョーが憧れで、あるいはアルプスの少女のハイジみたいな生活も悪くないな、と思っていたが、大人になって、ヨーロッパ一人旅をしているとき、アルプスの宿から、母あてにハイジ、と名うってカードを出したり、マルセイユからは、巌窟王の牢獄にきています、と現場報告をしたものだった。

麻雀も家族ではしていたらしいが、それは年長者の遊びであって、子供は先に寝かされていた。
10歳年長の長姉は、やはりそれより上の母方の従兄・従姉たちが来て、卓を囲んでいたものだ、と言うが、まったく記憶にない。

夏休みには1回だけ、海水浴に連れて行ってもらっていた。それが限度の経済状態だったようだ。
あとは、学校のプールがあれば、そこで泳ぎ、あるいは市民プールみたいなところにも行った記憶があるが、バス代がかかり、またちゃんと泳げなかったので、そんなに行きたいと思わなかった。

なんともつましい生活だった、と思い出すが、大人になって、それでも恵まれていたのだと知ると、その時代の貧しさが思い出される。

そういえば、クリスマスプレゼントで、バドミントンのセットをもらい(子供全員に1セット)、隣家との間の空き地で対抗戦をしたり、したことも思い出した。
だれからのプレゼントだったか、次回に記す。

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私は生き残った(4):大家族の日常

最大で11人の家族の生活、今の単身者の多さを考えると、1x11、今になるともうどんな生活をしていたのやら、思い出すこともできない。

食事もそうだが、まず、今一人でも、トイレは2つある、という生活からしてみると、11人に1つのトイレしかなかった、というのが生活の体系に考えられないのだ。
何年くらいこの11人の生活があったのだろう、10年以上はあったような気がする。

我が家のトイレは、玄関(表玄関ではなく、通用口みたいな)をはいってすぐにあった。
入ってすぐに洗面台があり、突き当りに男性の小用トイレ、右側に大便所があった。
当時だから、古いタイプ、汲み取り式であることは当然、大きく、口のあいた下を覗けるタイプ、自分のしたもののみならず、前任のあと、などもしっかり見えるものだった。
臭いもすごいものだったし、トイレはいきたいところではなかった。

今の腰掛タイプに慣れているため、座り込む和式のトイレのほうが清潔、といわれても、座れない現実、あの当時、70歳を超えた祖母や大叔母たちは、問題なくトイレをすることができたのだろうか?
そんなにラッシュアワーになった覚えもない。
1か所しかないトイレで、11人が順序よくすませていたのだろうか?
トイレットペーパーなど、まだ形もしらない時代で、便所紙といっていたのだろうか、4角形の紙が束でおいてあった。ろくすっぽ、漉かれた形跡もない、茶色っぽい紙で、親戚の家は、それが白い柔らかい紙を使ってあったのを知って、我が家の経済状態を認識したこともあった。
便所紙があるのはいいうちで、それがないときは、新聞紙を揉んで柔らかくして使っていた。

東京のデパートや宿泊先で、もっと柔らかい、お尻をふいても拭き残ししなくてすむ、お尻の穴が痛くならない紙に接したときの驚きや、最初にトイレットロールをみたとき、またフランスではトイレットロールが少なくて、四角い紙が互い違いに詰めてあること、など、トイレでのお国事情は今でも思い出す。

11人家族はどのくらいまで続いたのだろう。
順序からいけば、伯母が最初に家を出たような気がする。ある春の日、大人の女性が全員、黒留めそでを着ていた。何事?と聞いても返事は返ってこなかったが、みな、晴れやかな表情だった。
留守番にきてくれた人が、伯母が嫁いだのだ、と教えてくれた。
伯母はもう50代だったような気がする。なんで、50歳の年寄が結婚するの?と不思議に思ったが、一方、年配の女が一人減って、母はずいぶん楽になるだろう、と事情も知らないが思った記憶がある。

この伯母は、隣町の旧家のご隠居の後添えとして嫁いだことをあとで理解した。
が、こんな年での再婚というものの実態がなんとも理解できなかった。

その次が大叔母の死去か、長姉の結婚、などで減っていき、あるとき、父が別の町に仕事を得て、両親と弟がいなくなり、というふうに人口は減っていった。

11人の人数の食事は、どうだったのか?
当初は、台所はかまどであった。2口の焚口があり、おかまでごはんは炊いていた。
台所の横に茶の間があって、大きい掘りごたつがあった。といっても熱源は一日1個の炭団であった。
テーブル自体は大き目で、一辺に2人は座れたような記憶がある。
父は、一人、座敷で食事だった。
もしかすると、子供と大人の2部制だったのかもしれない。

御仏飯(おぶっぱん)を下げて食べるのは夕食だっただろうか?それとも夕食に炊いたご飯をお供えしていただろうか?
ごはんがたりなくなると、おぶっぱんを下げておいで、と言われていたのを思い出す。
我が家の食料事情がそうさせたのだろう、おかずの類も各自に盛り付けてあって、テレビなどでみかける、真ん中に大皿に盛り付けてある、といった場面はなかった。

温水がでるような設備があるはずもない、当時は食器洗いも水だったから、11人分の食器洗いも大変な仕事だったろう。
それに洗濯、最初は洗濯板での仕事だった。
洗濯用の水は、庭の一角に井戸が掘られていて、そこの水を使っていたような記憶がる。
だれがだれの分を洗っていたのやら、下着など何日着たままであったのか、なんだか、今、毎日着替えて当然と思う日々、贅沢をしているな、と思う。

お風呂は毎日たてられていたのだろうか?きっと父が一番風呂、そして年寄2人なのか、順番は思い出さないが、われわれ子供は最後だった。
寝る時間間際にお風呂に入りなさい、といわれ、面倒だった。それで、浴槽につかるだけで、体を洗わない日々がどれだけ続いたときだろう、私の小学校の担任から、お風呂に入っているのか?首のところが汚れているぞ、と注意された。
そうしてみると、こすれば垢がぽろぽろ、帰宅して母に告げれば、母はびっくり、しっかり洗いなさいといわれ、それからしばらくは、お風呂にはいっていると、母がのぞいて、洗っているかどうか、チェックされていた。子供たちが一人で入るわけではなく、二人とか三人とか、一緒に入っていた。

やっぱり、今がいい。一人で、毎日新しいお湯をいれ、それもボイラーで、温度設定しておけばすむ。わがお風呂は、水量の設定ができないので、その点では不便だが、先に入った形跡もなく、あとに入る人もいなければ、風呂の後始末もしなくていい。

これからもっともっと進歩するのだろう。
でも。今で十分、トイレとお風呂、台所、日常の生活は、昔に戻りたくない。
大家族、ちょっと避けたい。一人は極楽、なんて思う日々である。
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私は生き残った(3)祖母と大叔母

来年は昭和から数えると100年になる、のだそうだ。
昭和の時代に生まれた身には、3代といえば、明治、大正、昭和だったけれど、今や、昭和、平成、令和を3代としていう。

今、家族制度、あるいは孤独死、墓仕舞、昭和の時代には考えもしなかった変化がある。

私が小さいころ、11人の家族で暮らしていた。
小さいころ、家族関係もよくわからないままだったが、二人の老女がいた。
一人はおミヤさん、もう一人がおリクさん、だったが、こどもたちは、おっかばあちゃんとちんかばあちゃんと呼んでいた。おっかは大きいという意味で、ちんかは小さいという意味でつかっていたのだが、二人とも、ちんまりした老女だった。
おっかばあちゃんは父の母(あとで、祖父の後妻で、叔母たちの母であることを知ったが)、ちんかばあちゃんは、父の叔母であった。

11人の家族のなかで、男性は父と弟のみ、残る9人の女のなかで、この老女の存在は、私にとってはその存在理由が理解できなかった。特にちんかばあちゃんは、その行動などからも、「この人、なんなの?」と疑問だった。

現在でいえば、なにかの行動障害者であったのだろうが、幼い私にとっては、その行動が???であった。
だれからか、仕事を言われるわけではない、とても自由に動いている。
私に関係があるのは、登校後、雨が降り出すと、学校まで傘を持ってきてくれるのだ。
すこしどころか、相当だらしなく着物をきて、傘を3本もって学校へくる。
当時、小学校には姉、従姉、私と3人が通っていたが、この3人に傘を持ってきてくれるのだ。
授業中であっても、時には大きい声で、「傘もってきたよ」と叫び、先生に遠慮するときには、廊下で傘を振って存在を示す、もう恥ずかしくてならなかった。
こちらが反応しなければ、その行動が続く。だれかが先生に告げれば、授業を中断して「傘を受け取りなさい」ということになる。
これが、母からなら、こんな恥ずかしい思いをしなくてすむのに、と感謝より、うらめしかった。

しかし、当時、傘を3本、自宅からもってくる、というのは、傘が人数分ない時代、彼女は帰りは濡れて帰っていたのだ。

ずいぶん何度も、持ってこなくていい、と言ったものだが、彼女は聞く耳はもっていなかった。
彼女は彼女のしたい放題にする、のだった。

掃除などの家事を負担していたのやら、学校に行っている私にはわからなかったが、よく外出して、近所をうろついている、ということは知っていた。

彼女がお金を持っていたのか、知らない。我が家に同居して、食べることは一緒、なにかお金のかかるようなことはなかった。
ただ、愛煙家というのか、家の中でもよく吸っていたが、それはほとんどが、父の吸い残しのタバコだった。
みっともない、と私は軽蔑していた。
人の吸い残しを吸うより、やめてしまえばいいのに、と。
もしかしたら、ご近所をうろつくとき、吸い殻拾いをしていたのかも、と思ったりする。
今、思えば、タバコくらい、買ってあげたのに、だ。
でも、性格がわるいわけではなく、けろっとしていたので、大切にされていたとは言えないが、いじめもされず、年よりとして、ふつうに暮らしていたように記憶している。

73歳で、自宅で亡くなった。そのとき、私はまだ小学生か、中学生だったか、数日、具合がわるそうにして、近所の医師が往診に何度か訪れ、そして亡くなった。
葬儀や死にともなう行事については、何も記憶がない。

しかし、大人になって、帰省したおり、我が家の菩提寺にいけば、我が家の墓石にはちゃんと名前が載っている。
やっぱり家族だったのだ、と思う。そして彼女はまた、家族のなかで、落ち着きのない動きをしているのか、と。
今の時代なら、きっと行き所のない終わりになったろうにと。

家族のなかで、軽く扱われていた彼女、こんなになつかしく思い出すなんて、と意外で仕方ない。



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J'ai survecu 私は生き残った(2)貧乏時代

貧乏というのはどのくらいの生活程度をいうのだろう。
食べるに事欠く、あるいは食べることで精いっぱい、今の世で、100円の出費をためらう、そんな状態なのだろうか?
それなら、昭和の時代(昭和は長いけれど)の貧乏はどれくらいを言ったのか。

我が家は貧乏な家庭だったと思う。
なぜなら、大家族(12人)の中、稼ぎ手は父だけだった。そして父は引揚者として、私が事情が理解できるころ、小さな商事会社で働いていた。
12人の家族構成は、父と母、そして祖母、大叔母、伯母、叔母そしてその娘、父の先妻の子(兄と姉にあたる)、姉、私、弟だった。
長兄は私とは15歳の年齢差があり、生活は一緒ではなかった。ずっと、学生として、寮生活をしており、兄という存在があることすら知らなかった。

父の収入がいくらあったのか?
私の知るところではなかったが、これだけの家族を養うのはそうたやすいことでなかっただろう、というのは理解できる。

もしかしたら、我が家は相当貧乏なのか?と思った事実はいくつかある。
その一つは、この家族リストにいれていない、私の3歳下の弟が死んだときである。
病身に生まれついたのか、なにか線の細い、主張することのない弟だった。
4歳で亡くなった。病気がなんであったのかは知らないが、その葬儀というか、火葬にするときのことだ。
私は小さかったので、ほとんど覚えていないのがあ、遺体を火葬場に運ぶ、というとき、なぜか、父がリヤカーに棺をのせて、自分で運ぶといって、ほかの人たちから止められていた場面がいまも残っている。
周りの人から無理だと止められていたが、金がない、という事情が漂っていたことを感じた。
結局は、親戚が車を、もちろん葬儀屋のちゃんとした車ではなく、軽3輪みたいな車だったかもしれない、手配して、それで運んだのだろう。
その夕、叔母が、我が家には焼き場に運ぶお金もないのか、と泣いて愚痴っていたような気がする。
そこに、母がどう反応していたのか、きっと、納得のいく治療もできていなかったと思うが、母の顔はでてこない。

一時期、どうしてこんなに家族が多いのだろう、両親と子供だけなら、もっとすっきり、生活ができそうなのに、と思ったこともあったが、このような大家族は、当時は不思議なことではなかったので、食事などで、父(座敷でひとり食事する)、祖母、大叔母あたりの老人の食事、子供たちの食事、なにか差がつけられているのも受け入れていたし、献立というものが存在しない、なんせ、毎日、同じようなおかずが並んでいても、不平をいうわけではなかった。言える雰囲気ではなかった。

貧乏が自分に関係したのは、小学校入学時だ。ランドセルが買ってもらえなかった。3歳上の姉はランドセルだったと思うが、私はただの袋だった。洋裁をする叔母が作ってくれた、刺繍か飾りがついて、それなりにしゃれたものだったが、ランドセルは買ってもらえなかった。

しかし、私の時代は、ランドセルは必須ではなく、ランドセルを買ってもらえない子は多かった。
その子たちはやっぱり家が貧乏だと、子供たちの中でも理解していたが、私自身がその一員というのは
納得いかなかった。しかし、家で駄々をこねることはしなかった。

お米屋さんが集金にくると、10回のうち7,8回は、「今大人がいませんので、伝えておきます」という教えられていたセリフでおかえりいただくのも慣れていた。

しかし、中学入学には制服もおさがりではなく新調してもらえたし、高校入学もそうだった。
家から小、中、高校が徒歩圏内、というのはなんと恵まれていたことだろう。

ある時から、母が働き始め、彼女の収入から教育費が出るようになると、ちょっとした本を買うとか、学用品もちょっといいものになったりした。

我が家より、もっと貧乏な家がある、と知ったのは、母の義妹が夜おそく訪ねてくることがあったりしたときだ。
母の弟は、戦争で亡くなり、叔母は女の子2人を育てていた。当時、まだ軍人恩給など出ていなかったのではないだろうか。我が家を訪問する目的は、娘二人の給食費を貸してくださいという要件だった。
母は手元にお金があれば必ず貸していたが、時にないとき、私の貯金箱からお金をだしていた。
お小遣いなんてものはもらっていなかったが、時々、親戚や知人の訪問時に、お小遣いといって、小銭をもらうことがあったけれど、それをためていた私の貯金箱が流用されたのだ。
大家族の中の嫁にすぎない母、そもそもが現金などあまり持っていなかった、それがわかっていて、貸してくださいという叔母の状態を、母はよく理解したのだろう。

小さいときは、それこそ井の中の蛙、で、金銭とは関係のない中での生活だったし、3歳上の姉のおさがりや、よそからのまわりもので、そんなものだと思って、思わせられていたからだろう、今、思い返しても、惨め、という気持ちになったことはなかった。
のちのち、東京へでてきて、いろんな家庭状況で、いろんな教育を受けた人を知って、ああ、我が家は貧しかったのだな、と思ったのだった。

結局、自分で収入を得て、それで生活をするようになって、貧乏の実感が生まれたのだ。
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J'ai survecu 私は生き残った(1)

J'ai survecu この言葉は、フランス革命、ナポレオン帝政のあと、王政復古時の宰相として、当時の欧州の混乱を収めるため開催されたウィーン会議に出席した、タレーランが、会議後に感想を求められて発した言葉、と言われている。
その昔、大学の史学科で学んでいたとき、西洋史の教員から講義の中か、そのあとの雑談ででたのか、思い出さないのだが、この言葉がこの頃しきりと脳内を駆け巡る。

生き残る:という言葉を使うほど、波乱万丈の人生でもないし、大災害、あるいは戦争などに遭遇したわけでもないが、後期高齢者ともなれば、もう残りがどのくらいあるかは別として、毎日、ああ、今日も生き残った、という思いがでてしまう。

そして、過去の思い出がよみがえってくる。その思い出は、決して楽しい、ほんのりとしたものだけではないにも関わらず、なぜかただただ、”なつかしい”思い出になっている。
自分勝手ながら、そんな自己中心的”なつかしい”思い出の数々を記していきたのだ。

昨日、横浜へ行った。なつかしい人たちにあうためだ。
その人たちこそ、”生き残った”と言えるような経験をしてきたはずなのに、そんな悲壮な気配は全くない。
お会いしたのは、二人の修道女、お二人とも80代になられている。

30年ほど前、アフリカで一時期、同じところに住んでいた方たちだ。
赤道をまたいだ国、日本では一年には四季があります、なんて春夏秋冬をやたら口にするが、そこでは2季しかなかった。雨季と乾季だ。
日本で培った常識は、ほとんど捨てて生活しなければ、とても生きていけないような環境だったけれど、私は3年くらいですませたところに、彼女たちはとても長くいたのだ。
内乱、天災、食料危機、盗難、日本だったら、”あってはならない”というようなことが、いわば日常茶飯事、という土地だった。
夜、ベッドにはいって、今日は生き延びた、と思いながら眠りにつく、その眠りを、銃弾の放たれる音で目が覚めたり、上からぽとりと虫が落ちてくる、というようなことで覚まされて、ああ、生き延びたけど、平安な眠りは得られない、と思う日々だった。

私にとっては、今でこそ、笑い話にできるけど、ああ、絶えられない日々、と涙したこともあったのに、彼女らは、何事でもなかったように、楽しかったわね、と言われる。
そう言われれば楽しいことも思い出す。
例えば、毎日のように、彼女らの住む修道院を訪問して、彼女らが仕事していた事務室、日本人は真面目で正直、会計などの仕事を任せられていた、に行っては、持参したお菓子などつまみながらおしゃべりに興じた。
日本語で、プロトコールも意識せず、善意だけの会話、ストレスのない時間だった。

私は結局、内乱時に日本に帰国せざるを得なかったけれど、彼女らは残っていた。
どんな状態であったのか、もともとが混沌の国だったから、まあ、そんなに変わりのない生活でしたよ、と銃をつきつけられた体験も、長い停電や断水の日々も、まるで日常のように言われる。

そんなものなのだ。この70年以上の日々、といっても思い出せるのはどんなに頑張っても5歳以上のことなのだが。
生き残った人生を、暇にまかせて、思い出してみよう。
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嵐山で観光人力車に乗りました

大阪での所用の前日泊をするのに、京都を選んだ。
大阪に泊まった経験は遠い昔のことだし、所用のある場所が京都よりのところにある。
同行者の勧めで、前泊は京都、となった。

なぜか、京都へ行くとなると、東京発が早めになった。
何という上天気だったろうか、老女2人の旅行がこんなに祝福されたものになるとは!
富士山はキラキラ光って、その裾野から山頂まで、その雄姿を惜しみなくみせてくれている。
座席はちゃんと進行方向に向かって右側確保、富士山もさあ、撮ってくださいとモデル精神を惜しみなく示してくれた。

そして、京都着。この老女二人、一人は京都に何度も来ているが、もう一人、つまり私は、この数十年京都には来ていない。
宿は初めてのところ、まずは荷物を預けて、とホテルに行くバスでもたもたしてけれど、どうにか、ホテルにたどり着く。

ホテルの受付も親切で、荷物を預け、ハンドフリーになったところで、すぐ前に見える、嵐山行の電車に乗ろうと話は決まった。

話には聞いていたが、京都の交通機関、外国人にも便利であるように、とずいぶんキャッシュレスになっている。
バスも電車も、スイカのはいったカードを使用できるわかると、われわれ、小銭の計算もしなくていいと、カードを片手に大きな気持ちで、電車に乗り込んだ。
始発地点から終点まで、気分も楽だ。

嵐山駅に到着した。
人がうじゃうじゃいる。我々もそのうじゃうじゃの一人、いや二人なのだが。
着物姿の人が多い。しかし、その姿、「京都、大原三千院、恋につかれた女がひとり」というような雰囲気ではなく、着物姿ではあるが、帯は新スタイル、履物は靴もある、いまどきの、SNS映えするスタイルだ。
我々は、SNS映えどころではない。靴はズック、なんとも古めかしいスタイルのパンツルック、なんせらくちんだけをモットーにしている。

そんな我々が若い男性に声をかけられた。
ちょっと興奮!イナセな男性だ。
観光人力車の車夫の男性だ。人力車にのりませんか?というお誘いだが、とても感じがいい。
東京から京都へ、別にそんなに歩いたわけでもないのに、もう疲れ切っている。
二人して、人力車で観光、と決めた。

二人とも、しっかり危機に備えて、脂肪をためこんだ体形、もしかしたら、体重過剰で別料金かも、と聞くと、いえいえ、大丈夫です、という返事。ちょっと安心する。
二人のりの車、そう大きくはない。ヒップ大き目の二人、ちょっと重なるけれど、折り合いはつく。

特別、京都に詳しいわけではなく、その日も時間があるから、という目的意識のない旅、嵐山の雰囲気を感じさせてくれるというコースを走っていただくことにする。

まあ、とても楽しかった。
人力車にのって、赤いひざ掛けをかけてもらうと、まるで、なにか映画のシーンのような、という表現は昔、しっかりSNSムードになっている。
車夫の方は、ちゃんと写真にいいポイントで、角度もばっちり、ついでにAI加工までした写真を撮ってくださる。
住所の表記をみても、小さな建物をみても、そこは嵐山、小倉山、歴史にあふれている。
小倉百人一首、最初は「秋の田の」で始まる天智天皇のお歌だけど、100首目はなんだったっけ、と言えば、車夫の方がすっと答えてくださる。
その小倉なんとか、といういわれのある小倉山荘旧址厭離庵?なる場所にも案内してくれる。
落柿舎、テレビにしょっちゅう登場する、大きな竹林、あまり口の葉にのぼることはないけれど、その大きな山門が威厳を示す清涼寺、車を降りて見物するわけではないので、その雰囲気を実感できるわけではないが、老女にはこれで十分だ。

ここの人力車の組合(?)のメンバーは、そういう教育を受けているのか、とても気持ちがいい。
すれ違うときの挨拶、道を譲る際の体の動き、無駄なく、隙なく、所作がきれいである。

2時間の観光、この重量級の老女2人をのせて、すくなからずアップダウンのある狭い道なども人力でこなすにはずいぶんの体力が必要だろう。
関東からきた我々に、最後の挨拶がとてもよかった。できれば、関東までお乗せして、ご自宅へお送りしたいところですが、と。挨拶、お世辞とはわかっていても、あたたかい。

おすすめします、嵐山、人力車での観光!

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わが人生に悔いなし

今日もまた雪が降っている。
横殴りの風にあおられた雪、それぞれに方向が違う。
横に流れる雪片もあれば、まっすぐ降りてくる雪もある。
雪はどこに落ちたとき、満足するのだろうか。

雪の日は、野鳥が餌をもとめてたくさん来る。餌といっても、ヒマワリの種、これだけで飽きはこないのだろうか、と思うけれど、ほかの餌というのはおもいつかない。
我が家にくる野鳥、雀の種類で、大きい方から五十雀、四十雀、ヤマガラ、十三雀(コガラと読む)の4種類だけだ。もっと、多種の鳥がご近所にはきているようだが、我が家はこの4種だけ。
それで十分楽しい。
この4種、同族ではあるらしいが、同族内別種の婚姻というのはないのだろうか。
以前は、ヤマガラ、これが一番人懐っこくて、年によっては、手のひらにおいた餌を直接つついてくれるから、気に入っていた。色もちょっと赤っぽい色で、ほかの3種が白黒だけ、というのより、魅力がある。
しかし、よくみると、ゴジュウカラは胸元は白一色で、それなりに威厳があるし、シジュウカラはフロックコートみたいに、胸に黒の線が通っているのが芸術家っぽい。コガラはなんといっても小柄、かわいい’の一言だ。

先日、「人間標本」という本を読んだ。蝶の標本みたく、人間で標本をつくる、といういささか怖い本で、また、存在する花の色が、人間の目で見分ける色と、蝶が見る色が異なる、などと、本当なのか嘘なのか、わけのわからないまま読み終えた本だ。
4種の雀種の鳥たちを見ながら、彼らの餌に対する欲望をどうやって知ることができるか、などと考える。

鳥の話ではない。わが人生に悔いはない、の話だ。
あす、京都に行く。最後に京都にいったのがいつなのか、思い出しもしないが、この京都行を決めて、心の中にある情景がでてくる。
お見合いの相手と、京都でデイトしたときのことだ。
大学をでたものの、ということばもあるが、新聞社の就職試験を落ちて、ほかになんのあてもなく、なんせ、家をでたい一心で、お見合いの話にはのった。
我が家より豊かで、できれば都会、この条件さえ満たせば、それでよかった(ということもないが)。
お見合いをした相手は、京都の大学を出て、京都にはくわしい、というので、初デイトは京都だった。

通という京都を案内してくれた。それでこちらは満足、婚約は成立した。
しかし、人生には落とし穴が多い。この婚約者、私とのお見合いを承知しながら、ほかの女性との付き合いもあり、そちらとのごたごたで、婚約は解消となった。

私にとって、人生をもう諦めたいほどの絶望をもたらした事件だったが、なんと私はまだ生きている。
人生を振り返ったとき、この婚約解消は、まだ胸がキュンと締まるほどの痛みをもたらす過去だが、また過去を振り返ったとき、ある程度鮮明にでてくる記憶でもあるが、結局は過去の1ページでしかない。

あれから何年たつのやら、もう過去というより、フランス語なら大過去で表現すべき事件だけれど、また私が思いを寄せ、それが届かなかった男性、つまりは片思いの相手は5本指より多いだろうが、それらの人は名前も定かでなくなったりしているが、この婚約者は覚えている。

連れ合いが亡くなったとき、フランス映画の「舞踏会の手帳」ではないが、過去、私が思いを寄せた、あるいは私に思いを寄せてくれた男性たちと、連絡して、今どんな暮らしをしているのか、みてみたい気分にもなったけれど、連絡先もしらない、名前すらきちんと思い出さない人もいる。
そんなに年月が過ぎたのだ。

友人がからかい気味に言う。京都で巡り合うかも、と。それはない。50年以上の時を経て、お互い変貌著しい。
名前は思い出しても、顔は思い出さない。
もしわかっても、そして彼のせいで、人生は変わったけれど、その結果、いまや、「わが人生に悔いなし」だ。

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ロッキード事件を読みながら

今、ロッキード事件の本を読んでいる。
真山仁著「ロッキード」(文藝春秋、2021)、591ページある大物だ。まだ読み終わっていない。
これを読みながら、以前から、政治、あるいは政治家とお金という、わけのわからない関係を理解しようと思っている。

このルポでは、どうも田中角栄を全否定していない。金権政治家として烙印をおされたまま、公判途中で亡くなった。

日本では、死者を貶めないという美風?があるからか、死んでしまえば、功績ばかりが、功績がなくてもそれらしいものを作って称賛されるけれど、毀誉褒貶の厳しさは、田中角栄の場合は死後も毀誉では毀のみが褒貶では、貶だけがのこったような気がする。

以前の政治の世界、お金の動きがよく取沙汰された。
そんな中での、ニッカとサントリー、という表現もお思い出すが、よくウィスキーの名前が使われていた。
思い出すのは、新聞記者をしていた友人が、田中角栄からは、盆暮れにジョニーウォーカーの黒ラベルが、信濃町の田中邸に出入りする記者全員に配られていたこと、しかし、三木武夫氏にかわると、何も配られないんだ、と言っていたことだ。
ジョニーウォーカーの黒ラベルというのは、当時は最高級のウィスキーで、赤ラベルは見たことがあっても、黒となれば、なかなかお目にかかれない代物だった。
そして、そのとき、だから田中時代はよかった、という、その友人に、それでいいのか?という疑問を抱いた。

田中角栄の事件は、民間機、それも全日空が黎明期で、成長しようとするところへの機種選定にかかわる問題だったことがよく言われるけれど、それとは別に、軍用機の問題が大きかったという。

この本を読んでいると、裏金事件なんて、小さい、小さい、と思ってしまいそうだ。

安倍さんはなぜ、このキックバックをやめようと提案したのだろう?
彼は違法なやり方であることを十分承知の上で、清話会のパーティを主催していたのだろうか?
なんのきっかけがあって、やめようと言い出したのだろうか?
清話会のリーダーとして、やめたくないという意見を受け入れたというのは、どうしてだったのだろうか?
観桜会前夜のパーティの話なども絡めて、全容がわかるまでには、ずいぶん時間がかかるのだろう。
死者に口なし、安倍さんはまた、暗殺されるという劇的な死であったため、毀誉褒貶の誉と褒の部分がアップされがちだ。

ロッキード事件の本も読んでいて、当時の状況を理解できるわけではない。
政界は闇?なんだかわけがわからず、もやもやの時間ばかりが過ぎていく。
政治家用語集というのは、まだ出版されていないのだろうか?
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