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iいまどきの結婚式

この週末、甥の結婚式列席のため、福岡へと行ってきた。
結婚式、最期に出たのはいつだろう。かろうじて思い出すのは、知人の令嬢の結婚式披露宴で、つれあいの知人であったが、つれあいは外国にいたので、私だけが出席した。

20年はたっていそうな気がする。

久しぶりの結婚式、親族で出席するのも出席経験以上に久しぶりのことだ。

その様変わりにびっくりした。招待状にはさしたる変化はない。ただ、何々家ではなく、本人たちの名前での招待であること、これはいまどき、当然のことだろう。

違うな、と思う最初は、仲人不在だった。たとえ、二人の出会いに仲介人がいないにせよ、我々の世代では、式だけの仲人をたてる、という習わしがあったものだ。
新夫婦の生い立ち、経歴の紹介は司会者。おまけは映像である。大きな画面に、新郎、新婦の誕生から大学まで、という第一部、知り合ってから現在に至るまでの第二部、写真とともに、司会者が簡単に経歴紹介だ。

我々は親族席だから、主賓の席にどういう人が座っているのやら、受付で座席表が配られたはずなのだが、なぜか私にはなかったのだ。
まあ、職場の上司あたりが主賓の挨拶だ、私の時代であれば、社長、副社長あたりにご出席をお願いする、なんてこともあったし、大學の主任教授あたりも顔をみせてくれたものだ。

今回、親もタッチしていない式次第、若い友人たちばかりが目立つ。
流される音楽BGMは、たまに耳にしたことがある曲もあるけれど、やたらうるさいだけのメロディだ。

招待客の中に一人も羽織袴がいなかった。
私が最後に出席した披露宴には、両家が古典音楽を職業としていたせいか、やたら黒い衣装ばかりだった。つれあいの関係もあって、主賓席にすわった私は、なんとも肩身の狭い思いだったが、究極は、主賓席の皆さんが全員立ち上がられたので、私も立ち上がったときのとまどいである。なんとかにご唱和を、という司会者のことばで、皆さん、高砂であったのか、覚えていないのだが、朗々と謡曲を朗唱されるのだ。場違いの披露宴であった。

今回は別の意味での場違い感がある。音楽はわからず、ライトはプロジェクション・マッピングみたいに何かを映すような映さないような、まるでディスコにいるようだ。

とうとう、耳をふさいで、顔をふせてしまった。
悪いけど、席をはずすか、と思っているところに、司会者がきてくれた。
正直に音が多すぎること、ヴォリュームが大きすぎること、司会者のトーンも高すぎること、ディスコやキャバレーじゃないんだから、ライトもあんなに動かす必要はない、などとクレームをつける。

大変いい司会者だった。盛り上がっていることもあり、これからは少し音量なり光量を落とします、と言ってくれた。

若い人の結婚式、年配者に出る幕はない。家の紹介もなく、格式ぶったところがないのはとても気持ち良い。
お色直しも1度きり。ウェディングドレスからドレスだから、そう変化がないし、それなら、お色直し無しで、ずっと宴に残っていればいいものを、と思ったりする。

両家を代表しての弟のスピーチもよかった。原稿をみせられ、細かい部分を直そうとしたのだが、細かいところなど、だれも気にしない。そのまま読みなさい、といったものだ。

新婦の父親は、スピーチはしないものの、もう体全体で、感謝の気持ちを示している。

あたたかい締めになった。花束贈呈もあったけれど、花嫁の父の型破りな感謝表示が、この結婚をすべての人が祝福していることの現れでもあった。

この結婚式だけで、いまどきの、と総括することはできないけれど、我々の時代の、形式的な部分が消えて、こころからの祝福に満ちた結婚式だった。
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