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マリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展をみる

日曜日、東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されている「マリアノ・フォルチュニ織りなすデザイン展」を観賞した。
この展覧会は7月6日に始まって、来週の日曜日10月6日に終了する。終了間際の鑑賞となった。

この三菱一号館美術館は大好きな美術館だ。ちょっと古めかしい建物、一つ一つの展示室が小さくて、圧迫感がない。あせらずに各展示室をみてまわることができる。
アクセスもいい。東京駅丸の内側から出てすぐにある。駅構内の歩く時間は別にすれば、駅から4-5分だ。

もう大きな美術館や博物館は疲れる。フランスにいっても、ルーブルやオルセーといった大型のミュゼにはもう行かない。マルモッタンなど、1時間ちょっとで見て回れる、そんな規模の美術館での特別展に行くのが常である。

東京では庭園美術館もいいのだが、交通の便が悪い。都心に住んでいたときには、白金は散歩の範囲内であったけれど、今では新幹線を利用しての美術館通いとなっている。

それに三菱美術館は、友人からチケットがいただける。最初は私だけの分だったが、今は3枚、同行する友人も決まっている。

今回のフォルチュニ氏は、知らない名前だった。美術には弱いのだ。それでもいただいたチケットで、女3人で出かけた。
彼は、染色家、あるいはデザイナーという枠で縛れる人ではなかった。1800年代の人であるから、ダヴィンチと比較するのは当たらないかもしれないが、実に多才な人であったようだ。建築から工学、照明、多種多様な分野に興味を示し、また研究し、形にしていった。
染色の分野では、日本の文様や染色にも関心を示している。

美術館の入り口は、庭園になっている。パティオというのだろうか。このオープンスペイスが美術館への期待感を増す効果もある。

美術鑑賞は、やっぱり気分が高揚する。日ごろの鬱憤多い生活がしばし遠いものになった。
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ジャック・シラク仏元大統領死去

9月26日、シラク仏元大統領死去のニュースを見た。
今日のF2の放送は、マクロン大統領の弔辞、30日がdeuil nationalになるということだった。

シラク大統領にはいろんな思いでがある。それは彼自身とのかかわりというのではない、ただ、仕事上でのかかわりだ。

日本の迎賓館ができたとき、最初のゲストは、フランスのポンピドゥー大統領の予定だった。ところが、ポンピドゥー氏が病気で来日できなくなり、その時、首相をしていたシラク氏が代理で来日したのだ。大統領なら国賓になるのだろうが、首相なので公賓となり、ちょっと格落ちだったが、最初のゲストというので、それなりの迎え方であった。

私は、ニューオータニに設置されたプレスセンターに詰めていたが、あとで知ったのだが、亡くなったつれあいも、シラク首相来日の受け入れ側のメンバーであったとか。

亡くなればただ立派な、いい人ということになるのだが、シラク大統領の場合、それなりの毀誉褒貶はある。
もうずいぶん過去のことえあるし、個人的な感想でもあるので、必ずしも正確ではないのだが、彼は立派な大統領であったのだろうか。

彼の功績として、イラク戦争に加担しなかった、ということが挙げられているけれど、南太平洋での核実験を再開したり、日本だけを対象にしたわけではなかったと思うが、3か月以内のヴィザ免除をやめ、フランスに行く場合、ヴィザの取得を義務付け、フランス領事館には大行列ができたこともある。

親日家で、相撲大好き、というのも好意的だが、一度、公式訪問の日程を、大阪場所にあわせて、大阪スタートにしたことがある。それがいけないわけではないだろうが。

大統領として、人気はあったのだろうか?3度目の挑戦で大統領に選ばれたのだが、再選の時であったろうか、国民に選択肢がなかったための再選でもあった。つまり、今回のマクロン大統領選出とも共通項なのだが、決選投票の対抗馬が、シラクの場合、ジャン=マリー・ルペンで、革新の人も、ルペンよりシラクのほうがましという選択のなさの結果であったはずだ。

ミッテラン大統領の再選のとき、対抗馬とはなったけれど、再選を阻むことはできなかった。とはいえ、社会党の人気もなく、いわゆるコアビタシオン(同棲)という形で、社会党出身の大統領に保守の首相となった。ミッテランは本人の健康状態も悪かったらしいが、死に態に等しかった。

そんな中で、東京サミットがあり、ミッテラン大統領とシラク首相の2頭出席となった。シラクとしては、ミッテランには控えてもらうつもりだったらしいが、そうはいかない、ミッテランのほうが政治巧者である。サミットでは首脳、大統領がいればそれは大統領のこと、首相は外相を欠席させてその代わりにきているのだが、結局、中途半端なポジションになり、赤恥をかいてしまった。

お金の問題でもいろいろあった。パリ市長時代の問題、アフリカ某国との癒着、コレーズ県に所有するお城への補助金の件、ほかの大統領が清潔であったとはいえないが、彼はスキャンダルまみれでもあったのだ。

パリの父は、頑固な保守であったが、ある時、シラク大統領のことを、第五共和制最低の大統領だ、というので驚いた。ミッテランより悪い?と問うと、より悪い、という返事だった。

ブルドーザーというあだ名の通り、エネルギーはすごかったらしい。日本では、懐石料理は前菜にすぎない、と、公式の会食のあと、かならず肉料理を食べていたという話もある。

それでも愛すべき大統領だったのだろう。国葬になるのだろうか。私もまた、パリでの相撲興行時に会ったシラク氏の豪放な雰囲気をなつかしく思い出している。
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トマス・クック社倒産

今朝の海外ニュースで、イギリスのトマス・クック社倒産を知った。
トマス・クック社の利用者が、特にスペインの観光地で、足止めをくってしまった場面を見た。
クック社は旅行代理店とばかり思っていた私は、飛行機も飛ばしている会社であることを、倒産したときに知ったという抜かりものであった。

クック社は歴史のある旅行会社だ。とてもきちんとしていて、イギリスでも、フランスでも、よく利用した。亡くなったつれあいも、クック社への信頼は高く、フランスからほかの国へ移動するとき、ほとんどの場合、クック社を利用したものだ。

倒産にいたるには、ブレクシット、ポンドの下落、マーケットが小さくなった、いろんな理由があげられるとのことだが、大きくて、信用のある会社も免れない、そんな危機的状態なのだろうか、という思いをもった。

救援機が飛んで、ブロックされた客を本国へ運ぶという。実際にもう飛んでいるのだが。

こういう航空会社の突然?の倒産劇は、50年ほど前に経験した。
タイのエア・サイアムという会社を利用したときのことである。

タイから日本を経由して、アメリカ西海岸へのルートがあり、当時、安いという評判だった。
西海岸に住む友人を訪ねて、ついでにメキシコへも行った帰りのことである。ハワイに数日滞在して帰国を予定していた。
ロスの空港で、航空券を提示した私に、代行のアメリカの航空会社の窓口は、この航空券では乗れません、と冷たく宣言した。
事情をきけば、エア・サイアムの経営状態が悪く、そのチケットは今や有効ではないのだという。

どうすればいい?と聞けば、100ドル払えばハワイまでは乗せる、という。仕方なく100ドル払ったけれど、機内の飲食サービスは有料で、これ以上の出費を控えておきたい私は、飲まず食わずでハワイまでたどり着いた。

ハワイの友人宅に数日滞在、ハワイと東京間はエア・サイアムがまだ飛んでいるというので、その飛行機を待った。
乗るべき飛行機は、結局1日遅れでホノルルを出発、日本に帰りついたときは本当にほっとしたものだ。

もちろん、ロスーホノルル間の100ドルを請求したけれど、直後に倒産したエア・サイアムからの弁償はなかった。
それから、あまり安い飛行機は使っていない。なるべくナショナル・フラッグの会社を選ぶ。

なにかがあったときの救援が期待できることと、空港で待機するときの対処がきちんとしているからだ。

古い暖簾をかかげた会社も安心ではない。安定したもののない、変動の社会にどうやって対応していけばいいのやら。


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2%の倹約を心掛けて

10月1日から実施される予定の消費税率アップ、メディアでいろいろ言っているから、つい、こちらも構えてしまう。
0%から10%になるわけじゃなし、8%から2%アップして10%になるだけなのに、まるで、一挙に10%になるような報道の仕方(個人的な感想)だ。

しかし、毎日のテレビを見ていると、何か防御策を講じなければ、と思ってしまうのは、つましい年金生活者として当然のこと。
しかし、なにをどうすべきというのだろう。

オイルショックのとき、どうやってしのいだか忘れたが、トイレットペーパーが不足した。これはまた消費税とは別問題で、サウジの石油施設が爆撃を受けたことと関連しているのだが、トイレットペーパーのような日常の消費物品は、どうせいるものだから、買いだめするのもいいのかも。
と言いながらも、まず、現在がいくらなのかも知らないのに、それが2%アップしたからいくらになるのか、どう関係するのだろう。

食料品は優遇措置で、8%に据え置きだから、買い置きすることもない。

我が家の家計は、入るを計って出るを制す、でもなく、出るを計って入るを制す、なんてことは不可能だ。なにもかもが無統制になっている。
大きい出費は電気代、通信費、ガソリン代、灯油代、などだが、これで心して制御できるのはガソリン代くらいなものだが、それをすると、動きが鈍くなり、気持ちが落ち込む。

電気代はとても大きい。この数カ月、こまめに照明を消したり、テレビを消したりしたおかげか、8月支払いので電気代は減少していた。しかし、これからはもう暖房が必要、暖房をつけると一挙に電気代は増える。年齢とともに、冷えを意識して、体を冷やせば、万病のもと、と暖房をけちらないようにするつもりだ。

この2、3か月、2%を意識しただけで、頭痛はするし、気持ちがふさいで、その対価は、おやつが増え、体重も増えるという相乗作用だけだ。

それに何かを買い込んだとき、その管理もむずかしい。野鳥のエサを少し多めに買ってきたけれど、それだけ、与える回数も増やしてしまった。

あまりじたばたせず、自然体で構えていたほうが利口なのだろう。
まあ、賢い消費者にはなれそうもないのだから。
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最新鋭機A350に乗る

今回の旅行では、思いがけず最新鋭機に乗ることができた。
やけに大きい飛行機で、ぴかぴかしている。

しかし、私にとっては、機内に入る前にとらぶったことで、いらいらして、この飛行機がピカピカの新品であることには気づかなかった。

トラブルとは、タッチ&ゴーでチェックインできるはずが、まずは荷物のチェック前のゲートでスムーズにいかなかった。スマホのどこを出せば、タッチ&ゴーになるのか、老いの身にはわからない。入口でああじゃないこうじゃない、といろいろした結果、はい、大丈夫です、お通りください、で無事にはいれた。
次は機内にはいるときだが、その時にはスマホの画面がでてこない。結局、最期にお通りください、となって、最期の最期に飛行機にはいったのだ。

エコノミー席というのか、短い国内線で、別料金を払うこともないと、普通席である。ところがおや!と思ったのが、シートに画面がついているのだ。
映画をみることができる!とうれしくなった。JALのコンテンツは結構いい。

シートに座って、お隣の人のすることをみながら、イヤフォンをつけ、画面にタッチする。
映画、TV、書籍、音楽、いろんなチョイスがありそうだ。
福岡までの2時間で映画を見るためには、すぐにスタートしなければ、と映画をタッチするのだが、すべてのプログラムと新作という案内があるのだが、どちらも同じで、たったの2本しかでてこない。

私はこういう機器でうまくいくことはほとんどない。早速キャビンアテンダントの方に教えていただく、が画面は変わらない。
結局、コンテンツがまだはいっていないのだ。
電子書籍、しかり、音楽然りだ。というより、そのコンテンツの内容が、私の好みではない、ということもある。

この飛行機は、これからJALの主要な機種になるのだという。
聞いてみれば、この機種に特化した訓練を受けたスタッフだけが就航できるのだそうだ。

トイレを試してみた。新しい。広い。快適だ。ところが、フラッシュボタンが見当たらない。自動的に流れるのか?と蓋をしてみるが、流れる音はしない。蓋をあげると、トイレットペーパーは残ったままだ。
このまま知らん顔ででていくか?それも失礼なことだ。あとを待っている人もいない。CAの方にフラッシュボタンを教えてください、とお願いする。
自己主張しない形でボタンはあった。

目立たないからわからなかった、メガネもかけていないし、と言い訳をすると、CAの方も、私たちもまだ慣れなくて、とおっしゃる。

スクリーンの件だが、東京ー福岡間では必要ないような気がした。離陸時、航行中、着陸時、それにJALグッズの販売案内、としょっちゅうアナウンスがあって、そのたびに中断だ。

映画など見ている暇はない。眠る暇もない。

定員が何名なのかは知らないが、満席であったし、新型機は好評らしい。

復路はB777であった。
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引き出物はカタログで

結婚式に出て、気が重いのはお祝いと、そのお返しというのか、引き出物である。

まず、お祝いは金額を決めるのが、現在の相場を知ることに始まり、熨斗袋のお祝い用(結婚用)を買い求め、名前を毛筆で書きこむ、これだけの作業で疲れる。受付でお渡しするときに、袱紗を用意していかなければ、と年配者らしい配慮もする。

そして席に座ると同時に足元に置かれた引き出物のはいった袋。いりません、と言いたいところだが、失礼にあたろうと、それは言わない。

引き出物がものではなく、カタログになったのはいつのころからだろう。私がお年頃の時代には、しっかり現物で渡されるものだった。
重たい陶器やガラス製品というものが多かったが、これらは、割れても数が増える、つまり子孫が増える、という解釈で選ばれるというようなことを聞いたこともある。
どなたの結婚式であったか、確かに覚えていないのだが、象彦の品などは、ずいぶん長く使って、菓子皿などはまだ使っている。

外国で知ったかたの結婚式の引き出物は、デミタスのカップだった。ずいぶんしゃれたものにしたのね、と思ったが、日本でデミタス?使うことはないんじゃない?と疑問に思い、また我が家でも使ったのは一度、2度であった。自宅のランチで、食後にコーヒーということはあっても、デミタスを使うエスプレッソというケースがないのだ。

いつ頃からなのか、おそらく2000年以降のような気がする。

自宅に帰って開いてみると、全ページカラー、345ページもある。重い。Moageというタイトル、なんという意味なのだろう。和製英語というのが苦手だ。
中の品々を見ていると、だいたい金額の予想はつく。こういう判断をするのは、年配者のいやらしさだろうか。
引き出物といえば、あの人たちの結婚の記念品ね、と思い出すよすがになるもののはずなのに、このカタログからの選択となると、コストパーフォーマンスを考えたり、もう品はいらない、それなら食べ物にするか、といった現実的な選択になってしまう。

そもそも引き出物など必要なのだろうか。結婚式のスタイルも大きく変化しているのに、こうして引き出物は残っているのを、若者は疑問に思わないのだろうか。

品物を贈るというのは、香典返しもある。これにもカタログで、というのが増えてきた。
香典返しについては、仏教上の意味もあるということも聞いたが、私はしなかった。香典も辞退したい、と言っていたが、それもできないとき、香典返しはいたしません、と宣言。
実際に香典そのものも、ある団体への寄付という形をとった。

結婚についても、お祝いは新生活を始めるにあたって、ありがたいものだろう。しかし、引き出物が記念品でないのなら、カタログという形なら無意味ではないだろうか?
このカタログ、送り返して、再利用してほしいものだ。
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iいまどきの結婚式

この週末、甥の結婚式列席のため、福岡へと行ってきた。
結婚式、最期に出たのはいつだろう。かろうじて思い出すのは、知人の令嬢の結婚式披露宴で、つれあいの知人であったが、つれあいは外国にいたので、私だけが出席した。

20年はたっていそうな気がする。

久しぶりの結婚式、親族で出席するのも出席経験以上に久しぶりのことだ。

その様変わりにびっくりした。招待状にはさしたる変化はない。ただ、何々家ではなく、本人たちの名前での招待であること、これはいまどき、当然のことだろう。

違うな、と思う最初は、仲人不在だった。たとえ、二人の出会いに仲介人がいないにせよ、我々の世代では、式だけの仲人をたてる、という習わしがあったものだ。
新夫婦の生い立ち、経歴の紹介は司会者。おまけは映像である。大きな画面に、新郎、新婦の誕生から大学まで、という第一部、知り合ってから現在に至るまでの第二部、写真とともに、司会者が簡単に経歴紹介だ。

我々は親族席だから、主賓の席にどういう人が座っているのやら、受付で座席表が配られたはずなのだが、なぜか私にはなかったのだ。
まあ、職場の上司あたりが主賓の挨拶だ、私の時代であれば、社長、副社長あたりにご出席をお願いする、なんてこともあったし、大學の主任教授あたりも顔をみせてくれたものだ。

今回、親もタッチしていない式次第、若い友人たちばかりが目立つ。
流される音楽BGMは、たまに耳にしたことがある曲もあるけれど、やたらうるさいだけのメロディだ。

招待客の中に一人も羽織袴がいなかった。
私が最後に出席した披露宴には、両家が古典音楽を職業としていたせいか、やたら黒い衣装ばかりだった。つれあいの関係もあって、主賓席にすわった私は、なんとも肩身の狭い思いだったが、究極は、主賓席の皆さんが全員立ち上がられたので、私も立ち上がったときのとまどいである。なんとかにご唱和を、という司会者のことばで、皆さん、高砂であったのか、覚えていないのだが、朗々と謡曲を朗唱されるのだ。場違いの披露宴であった。

今回は別の意味での場違い感がある。音楽はわからず、ライトはプロジェクション・マッピングみたいに何かを映すような映さないような、まるでディスコにいるようだ。

とうとう、耳をふさいで、顔をふせてしまった。
悪いけど、席をはずすか、と思っているところに、司会者がきてくれた。
正直に音が多すぎること、ヴォリュームが大きすぎること、司会者のトーンも高すぎること、ディスコやキャバレーじゃないんだから、ライトもあんなに動かす必要はない、などとクレームをつける。

大変いい司会者だった。盛り上がっていることもあり、これからは少し音量なり光量を落とします、と言ってくれた。

若い人の結婚式、年配者に出る幕はない。家の紹介もなく、格式ぶったところがないのはとても気持ち良い。
お色直しも1度きり。ウェディングドレスからドレスだから、そう変化がないし、それなら、お色直し無しで、ずっと宴に残っていればいいものを、と思ったりする。

両家を代表しての弟のスピーチもよかった。原稿をみせられ、細かい部分を直そうとしたのだが、細かいところなど、だれも気にしない。そのまま読みなさい、といったものだ。

新婦の父親は、スピーチはしないものの、もう体全体で、感謝の気持ちを示している。

あたたかい締めになった。花束贈呈もあったけれど、花嫁の父の型破りな感謝表示が、この結婚をすべての人が祝福していることの現れでもあった。

この結婚式だけで、いまどきの、と総括することはできないけれど、我々の時代の、形式的な部分が消えて、こころからの祝福に満ちた結婚式だった。
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効率はもとめない、一つ一つを着実に

9月4日付の朝日新聞24ページに載った池澤夏樹氏の文章にうなった。
終わりと始まりという欄なのだが、まずは少し引用する。「まずは個人的な話。自分が老いたと思う。それが日々実感される。身体能力が少しずつ失われる。」

出だしが個人的な話とあるが、老人なりかけ(しっかり老人になっていても)が特に感じる現象だ。
ちょっと略して、そのあと、「我が血流は消化か歩行か思考かの一つにしか行かない。二つのタスクが同時に実行できない。(行かえ)足元がおぼつかない。駅の階段を下りる時は一歩ずつ決意して踏み出す。歩道のわずかな起伏に躓きかねない。長く坐っていたあとで立つとふらつく。万事ゆっくり。万事慎重。つまり愚図」

同感、同感。彼はほとんど私と同年齢。思うことはほとんどが共通しているようだ。

昔はこうだった、あれもできた、これもできた、と思わないようにするようになったのは、いつのころからだろう。今のモットーは、一つ一つを着実に、効率は求めない、動線は長くてもかまわない、長い分は運動だ、階段の上り下りもいとわない、それが今日の運動と考えればいいのだ、ということだ。

このパソコンを開くまでに、1階と2階を3往復した。まずは2階にあたったとき、3つの用事をするはずだった。一つは、買い物のレシート(カードで購入したレシート)を箱にしまうこと、2つ目は、ベランダに干した洗濯物を裏返しすること、3番目はパソコンでこの文章を書くこと、であった。1つ目と2つ目はクリアしたのだが、この文章を書くために必要とした池澤氏の記事の切り抜きを忘れている。再度往復した。そして、別にどうしても必要というのではないが、携帯の着信チェックをするためにもう一度階下に降り、携帯をとってきた。

14段の急な階段で、なるべく上り下りしないように、と人からは言われる。しかし、平たいところばかりでは、脚の筋肉も衰えるばかりだろう。だからこの階段もいとわないようにしている。
腰をかがめてする必要のあるお風呂やトイレの掃除は、リハビリ(別に病気後ではないが)と自分にいいきかせ、掃除後に腰を伸ばす運動をする。

こんなしみったれた文章は読みたくない、と自分でも思うが、池澤氏の文章の洒脱なこと。
ここにすべてを再現して、読んでいない人に紹介したいところだ。プロの文章というのか、池澤氏なりの文章なのか、ユーモアにあふれて、老いの状態がたのしいものになる。

74歳と2か月の彼は、来年は後期高齢者、その後は晩期高齢者で、やがては末期高齢者、と書いている。後期高齢者は行政用語かもしれないが、あとの2つは作語であろう。

1日1日、1時間1時間、若返ることはない。老いていくのだ。子供には老いていく、という表現は使わない。成長していく、という。いくつから老いていくというのだろう。

何をしてももう生産性と結びつかなくなってしまった。効率は求めず、一つ一つを自分の力で行うことえ、人の時間を使わないようにしているが、それもいつまでのことやら。

池澤氏の記事のタイトルは「老いては若きに席を譲ろう」だが、この席は電車の席ではあってほしくない。いつからかは知らないが、電車にのればすぐに座りたいと思ってしまうようになった。
ほかのところではもうとっくに譲っている。
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3歳から義務教育

フランスではこの9月の新学年スタート時から、義務教育開始年が3歳からになるのだそうだ。
フランスの教育の大原則、「教育の自由」(公教育、私立教育機関の両立)、「義務教育」、「非宗教性」、「無償である」そして「資格を与える権利は国に帰属する」
のなかの「義務教育」の年数が、6-16歳から3-16歳に変更になったのだ。

これまではどうだったのか、といえば、6歳からであれば、小学校からのスタートだが、3歳となれば、幼稚園だったり、保育園だったりするのだろうか。
小学校入学までの教育、保育は、フランスでは幼稚園(Ecole maternelle)、保育園(Creche)、託児所(Halte garderie)、または保育ママさんなどにゆだねられていた。
これから、これらの機関をどう統一させていくのか、まだ情報を得ていない。

ほとんどの児童が3歳くらいから、なんらかの教育機関に所属しているという統計があったから、それを義務教育としても、無償化という制度に組み込まれたメリットが加わるだけかもしれない。

義務となれば、通園しなければならない、ということで、これは教育の平等化に効果大であろう。
3歳からフランス語の教育に無償で接することができるのだ。
両親が外国人で、家庭では外国語であっても、幼稚園などでフランス語に接するとなると、習得できることになる。

教育者でもないので、3歳からの義務教育といわれても、実際には幼稚園などでの教育が続行するのだろう、つまりは遊びと勉強がまじりあった形、なのだろうが、なんだか急に3歳児がランドセルをしょって、というような図を想像してしまうのだ。

日本では、小学校、中学校が義務教育と言われるが、年齢ではどうなのだろうか。

今回、フランスでは義務教育にあたる言葉も、instruction obigatoireからobligation scolaireと変わったのだそうだ。
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私は嫌韓ではありません

韓国と日本の関係は、戦後最悪の状態なのだそうだ。
韓国では日本の製品を買わない運動とか、日本を嫌っているということを誇示する、そういった行動が目立っているという。
これはメディアに紹介されているから、そうらしい、というだけで、実際に私がみたわけではない。

日本でも、アンケートをとると、韓国きらい、という人が増えているのだとか。

その結果が、日韓の間に多く開設された航空路が、便の減数とか、廃便といった形になっているらしい。

私は韓国は1度行ったことがある。仁川に到着、ソウルに数日滞在した。
この旅行については、別にとてもよかったとか、印象が悪いということはない。それより、アメリカの同時テロに丁度帰国の日があってしまい(帰国前日、ニュースをみた)、仁川の空港が人気がなく、つれあいと私の便は運行されたけれど、あのシーンとした空港の風景が思い出されるのだった。

むしろ、韓国の人に好意を持っている、といえるのだが、それには2つのことがある。
一つは、アフリカに初めてつれあいと赴任したとき、韓国の人に大変親切にしていただいた。
つれあいは着くと同時に仕事は始まったのだが、初めて招待されたのが韓国の方であった。
本当にプライヴェートな食事会です、と日本人はつれあいと私、あとは皆さん、韓国の方であった。
女性陣がとても私に気を使って下さり、ここは物資を求めるのも大変なところですから、何か必要なものがあったら、是非おっしゃってください、というご親切には、西も東もわからない私にとって、大変な救いのことばだった。
また、日本と韓国は兄弟みたいなもの、お兄さんの国と思っています、とリーダーの男性が言われたのはとても印象的だった。

その後も、ゴルフにお誘いいだただいたり、時にキムチが届いたり、さりげない親切にどんなに救われたか、今でも暖かい気持ちになる。

結局、赴任国の内乱で、日本に一時引き揚げ、現地に戻ったときには、彼らも自国に引き上げたままで、そのあと戻ってこられることはなかった。
それからの交流はないが、彼らのご親切は忘れられない。

もう一つは、妹みたいな韓国女性の存在だ。生真面目で、それでもユーモアたっぷり、人情に厚く、知性に富んだ人である。
フランス語という共通因子で知り合ったのだが、我々の会話は日本語、とても彼女の前でフランス語では話せなかった。

あまりに真面目で、他人を疑うことをしないので、裏切られたりもあるようで、つらいときもあるようだが、ポジティヴでいる態度は、年下ながら、わが模範でもある。

私にとってはこの2つのことで十分だ。毎日、あふれるような日韓関係の報道を、なんでこうなるのだろう、と哀しく思いながらみている。
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