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abdication de l'empereur天皇の退位

フランスのプレスで、abdication de l'empereurという言葉をみたとき、つい、ナポレオンの退位を想像してしまった。
この言葉、皇帝を意味しているのではなく、天皇の退位を指していることにすぐに思い至った。

そうなんだ、天皇の退位はこう表現するのだ、とわかったけれど、この言葉で長くナポレオンの悲劇的な強制された退位と認識していたので、天皇の退位は自発的というのか、ご希望によるものなのに、となにかそぐわないような印象をもったのだった。

日本は終身天皇だ、と言う人もいるそうだが、世界の王室で退位が認められていない国はそうないはずだ。
自発的ではなく、なかば強いられての退位のケースもこの数十年にはあった。
たとえば、ベルギーはそもそも現国王が2代前の国王から後継者に指定されていたのだが、現国王の父親が強引に国王となり、最期はあまり評判がよくないまま、現国王に王位を譲ったような経緯がある。

スペインでは、前国王が国が難題に直面しているとき、アフリカで象狩りをしていることがわかって、結局退位となった。
オランダの場合は、女王が年齢的なことで、自発的に退位されたように思う。

しかし、タイのように、ご病気が重くても、亡くなられて初めて御代が変わるという国もある。

世代交代、いたしかたないことだが、天皇のご退位が、いろんなところで世代交代への圧力になるのかもしれない。

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孤独の克服法

若いころは孤独が大嫌いだった。いつも人に囲まれ、にぎやかにしていたかった。
しかし、実際はそうはいかない。

東京という大都会で、一人暮らしとなると、孤独はついてまわる。
特に、年末年始、ゴールデンウィーク、お盆のころ、この3大孤独期間というのは、苦手だった。

少し救われたのは、働いていたところが外国の機関だったため、年末は12月31日の午後から1月1日のみが正式な休日、2日には仕事だったこと。またGWにしても、日本のカレンダー通りではなかったので、日本が浮かれているわりには、仕事場でのんびりすごすこともできた。

しかし、メディアがそういった休日の過ごし方、それも派手に過ごすほうのサイドだけを報道するとき、それに乗っていけない自分、そして、その期間は、置いてきぼりをくっていることに、たまらなく寂しい思いも感じていた。

さて、10連休、日本脱出の予定がかわって、自宅にこもっている。
普段と変わりない生活だ。ただ、公的な機関が閉まっている。
関係があるのは郵便局と図書館だけだが。

庭仕事と読書、これが10日間にやろうと思っていることだ。庭仕事はいい。草取りなど、無心にはならないが、何を考えながらにせよ、手先だけは動かしていられる。昼は何を食べよう、夕食用に冷凍庫から何をだしておこう、と具体的なことを考えれば、孤独の暗さは避けられる。
1日中、庭仕事なんてできない年齢、残りは読書を予定しているのはいいのだが、貸出限度の5冊、連休2日目にして読み上げた。残り8日間は何を読もう。

心配はない。読まなければとため込んだ本が10冊はある。リーマンショックに関する本など、もうショックから10年たったのに、まだ読んでいない。
断捨離で処分しようとしながら、処分しきれないでいる本は山積みだ。もう一度読んでから捨てることに、という本、本当のところ、やっぱり読まないでおわりそうなのだが。

手紙も配達がない、電話もかからない、なんてことは、連休ならずともいつもそうだ。

若い人にはつらいだろうと思う。若い当時、自宅にいるのがつまらなくて、外出するのだが、美術館でもお金はかかる。外食もお金がかかる上に、一人をとても意識する。
日給制の人間には収入すら大きく減っていく。

きっと孤独は人間を強くする、がんばれよ孤独な人!(私を含む)
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高齢者の運転

先日の池袋での事故、高齢者運転によるものだった。87歳、よく免許更新ができたのだな、と思った。

しかし、フランスなどではそんなに珍しいことではない。
昨年96歳でなくなった代父は90歳をすぎるくらいまで運転していた。
私がフランスに行く、というと、空港に迎えに行くから、という。来なくていい、というと、pourquoi(なぜだ?)という。あなたの運転がこわいから、とは電話口で言えなかった。

出口のところに、身なりも乱れた父の姿をみて、よく空港までこれたものだ、と思い、また駐車スペースがわからなくなった、とかゲートでうまく料金が払えないなどのトラブルのあと、道路でもパリはどっちだ?と分岐点で急に車をとめたり、本当に危ない運転だった。

あまりのひどさに、どうにか家にたどり着いたあと、もう運転は止めたら?というと、これまで無事故できている、なんでやめる必要がある?とひどく怒ったものだ。

その後、娘が強引に車を持ち帰り、車なしの状態にして、運転をできなくしたのだった。

しかし、その後も、車があったら、私をどこへ連れていけるのに、とか、ブルターニュの別荘に行きたいのだが、車なしではいけない、などと文句を言っていた。

認知症の症状もあったから、あのまま運転をさせていたら、きっとひどい事故を起こしたことだろう。無事故だった、といっても本当に危ない運転だったことは、若いころからで、同乗するのは覚悟が必要だった。

今回の池袋の事故で配偶者と娘を亡くされた方が、「自信がない、と思ったら、運転をやめてください」と言われていたが、自分で自信がない、と客観視できる人は少ない。
私など、免許をとったときから、ずっと自信がないままの運転だ。
駐車がうまくできなくなる、というのが高齢運転の証明の一つだ、という説もあるが、女性は往々にして、駐車は苦手である。なぜなのだろう。

被害者のかたの発言をきいて、私もやめるべきか、と思ったりするが、やっぱり今やめるというのは無理そうだ。
2年前に亡くなったつれあいも、晩年はいくつかの自損事故をおこした。なにかに接触というのは数回あったし、それを自己申告しなかった。
大きな事故をおこさないで済んだのは本当によかった、と今更のようにほっとしている。

認知能力だけでははかれない運転技術、常に注意深くあること、これが最低の条件だろう。

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村の選挙

ようやく地方選挙が終わった。
わが村では村長選挙と村議会議員の選挙があった。

この村に居をすえてもう10年以上、地方選挙も3回は経験している。

最初のころは何の情報もなく、だれに投票していいものやら、選挙公報というのもあったのか、なかったのか思い出さない。
もし、あったとしても、公約というのは、みんなに通っている。これで選別せよ、といわれても無理だ。

都会に住んでいたときは、だれがだれやらわからないままに、所属の政党やなにか判断材料があったように思うが、村というのは、公約や政党というより、すんでいる地区というのがキーポイントだ。

いっそ、私が立候補しようかしら、と引っ越してすぐの選挙の時に言った。
行政で、都会と違うことにいらだちがあったことや、文化設備(図書館がないとか)のなさに、がっくりきていたこともある。

つれあいは冷たく言った。「家族票だけで終わるよ」と。
共感してくれる人もいないではない、と言っても、その人たちの共感は本当にせよ、投票となると違うというのだ。

10年住んでわかった。地縁は強い。

この頃は、選挙前に訪問がある。こんなの違反よ、と思うけれど、ちょっと近くにきたので、とか、ご機嫌伺い、みたいなことを言われて、きついことは言えない。

そんなこんなの選挙戦を経て、村長は4選を果たし(対立候補1名)、村議会議員は定員12に対して13名の立候補者、落ちるのは1名だけである。
公明党と共産党だけは所属政党が明記され、ほかはみなさん無所属、4名の新人、どんな選挙戦であったのか。

住む人は少ない別荘地にも大きな「ご支援お願い申し上げます」の選挙カーはくる。
4月というのは微妙な時期だ。お天気がよく、暖かければ、人も外にでて、畑や庭をみていることもある。しかし、寒い日は、二重窓もしっかり閉ざされて、そんな選挙カーのウグイス嬢の声は聞こえない。

移住者としては、わが村の意識が希薄である。さあ、これからの4年間、どう村は変わっていくのだろう。
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初水仙を摘む

今朝、朝の洗面をするため、洗面所から北側の庭をみてびっくりした。
幾か所かに水仙が咲いている。ようやく咲いた。

面白いものだ。春の花は南の庭より北の庭が早く咲く。まあ、チューリップは南の庭が早いけれど。

待ちかねていた。というのも、亡くなったつれあいに供える花は、庭の花と決めている。だから冬の間はほとんど花無しですごす。ブリーザータイプのものを置いてはいるけれど、早く庭の花を、と思っていた。
それかといって、フクジュソウ、クロッカスというのは小さすぎてお供えにはむかない。

3本切って、小ぶりの備前焼の花瓶にさす。
庭の水仙よ、とつれあいに言う。もう3回目の初水仙になる。
月日の流れは速い。月命日が何回目になるか、指が足りなくなってしまったが、まだ計算はできる範囲だ。

つれあいの好きだったバラは、まだ生きているのか、枯れているのか、はっきりしない状態だ。

こうして春になって、庭が庭らしさをみせるようになると、二人して庭仕事に励んだ日々がよみがえる。
これからは秋深くなるまで、庭の花を絶やさなくできればいいのだが。
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ノートルダムの鐘

昨日なのか、今日なのか、パリのノートルダム大寺院の火災に対するsolidarite(連帯)の意思表示で、フランスのみならず、いろんなところの教会が、数分間にわたって鐘をならした、というニュースがあった。

どこの寺院がどんな鐘をもち、どんな音色なのか、というのを知らないが、教会のてっぺんに鐘があって、時間を知らせることもあり、またミサが始まることを知らせる時にもならされる。

いっそ、日本にもこのことを知らせて、お寺の鐘をパリと同じ時間に鳴らした、ということでもあれば、きっとすごい連帯となったことだろう。

パリに行っても、必ずしもノートルダムの近くにいるわけではないから、ノートルダムの鐘の音がどうだったのか記憶がない。
教会の鐘の音で記憶にあるのは、日曜日、ミサに通っていたヌイイの教会の鐘の音だ。ミサが始まる5分前に少しせわしない感じで鳴らされる。

パリに住む老婦人が、今回のノートルダムの件で、鐘の思いでを語っていた。
1944年だったか、パリがナチスの占領から解放されたとき、それを市民にしらせたのはノートルダムの鐘だったと。ずいぶん長く鳴らしつづけたらしい。

そんな記憶があるから、ノートルダムはフランス人にとって特別な存在なのだ、とわかる。

今年のご復活祭の前日、ここで洗礼を受けるはずの人はいなかったのだろうか。
もし、いるのなら、どこで受洗することになるのだろう。

そういえば、大司教はAupetitというお名前だ。PetitとかGrandといった名前は、パリの亡き父の故郷にみられる姓である。いろんなことを思い出す。


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ノートルダム大寺院、私の思い

昨日は、朝のっけからニュースでノートルダム大寺院の火事のシーンをみせられた。
まるで映画インフェルノを見ているような気がした。
ビルではない、あれはパリのノートルダムに似ている、何かの映画をCGで撮影しているのだろうか?

最初は信じられなかった。しかし、BSでみる外国のニュース、あるいは日本のテレビにしても、ニュースのトップはノートルダム大寺院を、それも炎につつまれた寺院を映している。
石造りの寺院がなぜあんなに燃える?と不思議に思ったが、ニュースの中で、実は内部の構造は木材なのだ、という説明に炎の強さの意味がわかるように思った。

日本のテレビでは、パリの観光名所と言っている。そうじゃありません、観光客も行くでしょうが、あそこは教会の大元締めなんです、カトリック教徒にとっては、祈りの場所なんです、と一人で反抗する。

でも観光名所というのもわかる。だからこそ、私は足を向けなかったのだが、一昨年、パリに長く滞在したとき、考えをかえて、大寺院へ行ったのだ。
最初は、時間が悪かったのか、大行列ができており、教会へ入るのも時間がかかりそうだった。周囲のアジア系のひとたちの賑わいもいやで、その日はあきらめた。

翌日、朝少し早目にいくと、行列もなく、人も少なく、すんなりと入れた。
入ると同時に、特別の感覚に陥ったことを覚えている。

人生で最初に訪れたノートルダムは、まだ信者でもなかったし、好奇心のみの対象だった。それこそ行列をして狭い階段を上り、寺院の上の回廊を歩いたものだった。
当時、「ノートルダムのせむし男」という映画をみた後だったので、そうだ、こんなところが映画に出た、などと、まるで自分がヒロインにでもなった気分で、こわごわと歩いていった。

一昨年は、ノートルダムの隣に住んでいるという女性と知り合いになり、大寺院を訪れたら、うちにもいらっしゃい、と声がかかっていたので、訪問した。
本当にお隣に住んでいる。親の代から住んでいて、洗礼や結婚もこの教会だったわよ、という。

どんなにかこわかっただろう、火は、煙は、どこまで迫ったのか、心配になって電話をかけてみた。
男性が電話口にでてくる。私の名前を言っても通じない。もしかしたら、一時的に同居しているひきこもり気味の長男か?と問うと、家族じゃない、ポンピエだという。つまり消防署員なのだ。
家族は?と問うと、避難している。避難先は聴いていない、携帯にかけてみろ、という。自宅電話しか知らないのだ、というと、それじゃ自分もどうしようもない、とそっけない。

いろんな人からお見舞いのメールをいただいた。九州の従兄は電話をかけてきた。ショックだろう?という。ショックでない人はいないだろう。
彼は音楽をしているだけに、大寺院に集まったひとたちが、自発的に歌を歌い始めたことに感動している。

ご復活祭が近いこともあるし、ノートルダムだから、きっとマリア様をたたえる讃美歌だと思う、と言うと、歌ってくれないか?という。そこまではできない。

巴里の中心というのか、フランスの中心でもあるノートルダム、きちんとした形で修復となると、ずいぶん時間はかかるだろう。数十年かかるという説もあるそうだ。
修復後にいけるだけの体力がこちらにあるかはわからないが、見届けたい気持ちはある。

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新紙幣発行からみえるもの

新しい紙幣発行が発表された。5年ほどの準備期間をおいて、新紙幣へと移行するらしい。

意外な発表だった。天皇が変わられることで、年号が平成から令和へ、そんなニュースに振り回されていたところに、けっこう隙をついた形での新紙幣の発表だった。
偽札防止のため、20年に一度くらいの割合で、紙幣の模様を変えるのだという。

友人の一人が予言していた。消費税が10%というきりのいい数字になるとき、デノミもやるよ、と。
しかし、それははずれた。

一時期、日本円の単位の大きいことが、貿易や外国との取引において面倒なので、1万円を100新円にする、という形でデノミをすべきだ、という意見が多くきかれたものだった。
不景気の底にあるときだったような気がする。そうすることによって、印刷、製紙をはじめとする多くの分野で、需要が生まれ、景気が持ち直すと。しかし、今回の新紙幣発行だけでも、相当の景気浮揚があるようだ。


またそれよりなにより、タンス預金やいかがわしいお金が表に出てくる、旧紙幣を使いきらねばという人が大勢いるのだと。

今、私もその一人かと思っている。ずっと500円コインの貯金をしていた。この新紙幣と新500円貨発行のニュースの前からだが、家計ひっ迫で、毎日、ためておいた500円コインを小銭入れにいれて買い物にでる、という生活である。
もちろん、5年もかからず、今年1年で使いきるほどの金額ではあるが、以前、稲穂の100円コインをため込んでいて、使おうとしたら、自販機からはじかれてしまう、という経験をしたこともあるから、なるべく古いものは使わねば、という意識を持っている。

フランスはユーロに移行する以前に離れたので、その時の混乱というか、切り替えに対応することもなかったが、アフリカでは、デノミにであった。

予告もなく、突然施行するという、アフリカ風のやりかたに、呆然としたものだった。
もともと、お札を印刷する能力もなく、外国(ヨーロッパ)に委託しての紙幣発行だったけれど、ある日突然、大統領令として、デノミが発表され、即時執行なのだった。

その時の混乱をどうやって乗り切ったのやら、もう20年も前のことで、記憶から飛んでしまったけれど、それでも国は存続し、それによって私たち外国人も命を失うことはなかったのだから、どうにかなるものだ、と変に覚めた見方をしてしまう。

消費税においては、食品に対し、軽減税率を設けているが、これはやっぱり、消費税が10%ではおさまりきれないことを予測してのことなのだろう。
友人は、日本も諸外国なみに、20%を超える消費税が必要になるときがくると言っている。直接税と間接税の関係もあるから、そうはならない、と、なってほしくない、と私は反論するのだが、それは必然だと実務にたけた友人は主張する。


今回のデノミ無しで、彼の主張は半分否定されることになったけれど、消費税についてはあるいは?と思う。

なぜ、女性は必ず5000円なの?1万円札に採用できる女性がいないの?と聞くと、一人採用だけでもすごいことだ、ともいう。

せんだって、ミャンマーで古いドル札の受け取りを拒否されたけれど、5年後、新札発行後は、日本での流通は可能でも、外国で両替を断られることもでそうだ。

たんす預金も、へそくりもない生活だから、困ることはないと思うけれど、発行までの5年、そして、次の紙幣への移行に20年、そこまで生きていることもなさそうだから、最期の経験となるのだろう。
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最近違和感を覚えたこと(1)

なぜ沖縄に基地が集中しているのか、これは私が常々抱いている疑問である。

だいたいのいきさつなら、いろんな歴史書、解説など読んで理解できたように思うのだが、決して理解していない。

最近呼んだ「宝島」という本、もちろん小説という形で出ているので、すべてが事実ではないのかもしれないが、とても感銘をうけた。

その本への違和感ではない。今度行われる沖縄3区での補欠選挙での候補者の発言だ。

自民・公明・維新が推す島尻候補の選挙演説のなかの一言が気になっている。
「普天間飛行場の危険性除去を考えた時、   今建設中の辺野古に写さなければならない。そして将来、滑走路が民間で使える可能性を模索したい」
これは4月10日朝日新聞に載っていたもので、演説の一部であり、抜粋でもある。

たしか、私が故意に空白にしている部分に、彼女は「いったん」という言葉を発していた。
これを聞いたとき、とても違和感を覚えたのだ。

いったん、というなら仮の、一時的な、ということになろう。
それならば、仮に、一時的に辺野古に基地を作って、普天間の機能を移す。しかし、そのあと、またどこかに基地を作る、というのだろうか。
私は、もしかしたら、基地そのものを県外、あるいは国外に移す、ということも可能性があるのだろうか、と考えたのだ。

まさか、自民党がそんなことを考えているとは思えないし、このいったん、は塩尻氏の間投詞的な表現なのだろう。

翌日のメディアも全く無視である。

しかし、私にとってはとても気になる表現であった。いったん辺野古へ移す、これが一時的という意味なら、なんという無駄遣いをするのだろう。
お金をどぶに捨てる、という表現があるけれど、今の状態、お金を海に捨てる、といってもいい。

とても気になる選挙である。

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ルワンダ大虐殺から25年

25年前の4月7日、ルワンダでの大虐殺が始まった、とニュースで扱っていた。
1994年のことなのだ。

それから3年後の1997年、私はその隣国に赴任した。
はじめてのアフリカ駐在だった。

ルワンダの大虐殺、一応終結して、その虐殺を主導した人たちがハーグの国際司法裁判所で裁かれる、といったところでのアフリカ行きだった。

同じ隣国でも、川を隔てたところにある国もあれば、ルワンダは距離があった。
だからその影響がないか、ということはない。ルワンダから逃れたひとたちのキャンプが国境沿いの赴任国側にあり、またそのキャンプの住人が、虐殺を逃れるためにきた人たちから、虐殺に携わったほうの民族が、報復をおそれて逃れてきている、というふうに、住人がかわっていた。

私が住んでいた首都は遠く離れていたので、キャンプをみることはあたわなかったが、首都にもその対立はあった。

はじめてのアフリカで、だれがツチ族なのか、フツ族なのか、どういう違いがあるのか、まったくわからない。
西欧やアフリカの人にとって、日本人、韓国人、中国人の区別がつかないように、私には申し訳ないが、同じ黒い肌である、ということしか認識できなかった。
身長や、頭の形など、けっこうわかりやすい、と長く滞在していたシスターは言われていたが、さて、この人はツチ、あっちの人はフツ、と言われても、どこでわかるのだろう、と思っていたのだ。

でも、3年たっていても、ルワンダではないのに、なにか、緊張感があったのを覚えている。町中に行く、という勇気がなかったので、人通りの少ない自宅周辺ではなにも感じなくてすむはずなのに、ぴりぴりした空気があった。
メディアというものが未発達だったし、インターネットもなかったので、人のうわさがメインの情報であったけれど、町中で、ツチとフツの人たちの争いがあった、などという話をきくこともあった。

25年を経て、ルワンダは大きく変わっているという。とうとう行くことはなかったので、比較どころか、何も現地情報はもっていないのだが、人的資源が豊富で、女性の社会進出も世界のトップレベルであるのだそうだ。

マシェットという道具がある。半円形の刃物で、草刈りなどに使うのだが、それが殺戮に使われたと聞いていたので、庭師がそれを使うのがこわかったことも覚えている。

アフリカはいろんな悲劇の舞台だった。
ルワンダの大虐殺は、それらの一つでしかない。

25年から30年へと、平和な年数がずっと続きますように、と心から願っている。
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