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2年目の3月11日

明日は東日本大震災から8年目の3月11日。昨日のようにその日を思い出す、と言いたいけれど、だいぶ忘れてしまった。
当日、つれあいとこたつにはいって、テレビの国会中継をみていた2時46分、大きく揺れた。国会ももっと揺れていた。

どこが震源地で、どれだけの地震だったのか、その情報がでるのは、時間がたってからで、それまで、繰り返す情報に、うんざりしながらもしがみついていた。

それから、計画停電もあり、なかなか灯油やガソリンが入手できない状態で、つれあいと、災害地ではないから、と励ましあって暮らしたものだ。
あの黒い津波の光景は、忘れられない。

そして去年、3月11日は、私にとって、大きな日になった。
パリの代父が亡くなったのだ。8時間の時差があるけれど、父は11日になってすぐに息をひきとったらしい。その日泊まっていた看護婦が気づいて、すぐに連絡を娘にいれたりで、私に連絡があったのは、11日の午後であった。

この頃、在宅で最期を迎える、という番組がNHKで放送されたものをみた。
父も家で最期を迎えたいと望んでいた。その望み通りの最期だったけれど、それはぎりぎりのことだった。というのも前日まで入院していたのだが、在宅看護の準備が整ったというので、10日午後退院し、戻ってきて、その夜の死であったのだ。

1月20日までその家で暮らしたあと、また5月に来るから、と別れて、2か月たたないうちの別れとなった。

昔かたぎのカトリック信者としてはめずらしく、火葬を希望していた。
火葬はまだフランスでは少数派、火葬のできる施設が少なくて、順番待ちがあって、1週間以上待つことになった。翌々日にはパリに駆けつけたけれど、無為に待つことになった。

教会でのミサはもちろんあったけれど、供花はいらない、そのかわりに寄付を、という本人の遺言であった。
私のつれあいの葬儀も、お花もいらない、香典もご辞退、としたけれど、喪主はともかく、親族でも友人でも、弔意を示したいのに、示すことができない、というジレンマを感じたものだ。

3年前に亡くなった代母、それに代父、この二人の人柄に惹かれての35年だった。

明日は2重に追悼の日である。

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