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「ビルマの竪琴」についてわかったこと(2)

さて、竹山氏はどうやって、この「ビルマの竪琴」の構想を得たのだろうか。
彼は一度も出征したことはないようだ。もちろん、ビルマ出征はしていない。

一説には、ビルマからの復員兵のなかに、竹山氏の教え子がいて、その教え子からうたう部隊のことを聞いて、それを小説化した、というのがある。
しかし、私が読んだ文庫本のあとがきに、そういった事実は書かれていない。
戦争についてなら、戦時中に戦死した、友人や教え子についてならあるのだが、ビルマでの死者はいない。

しかし、ビルマの竪琴の最初の書きだしは、疲弊しきった復員兵の中に、やけに陽気な元気のいい部隊があった。いつも歌っていた。ということで、うたう部隊を紹介している。
それから、おもむろにビルマでのことを掻き出しているのだ。

だれからか、このビルマから戻ってきた復員兵のなかで特徴のあるうたう部隊について聞いたに違いない。

作中の人物としては音楽学校を出たばかりの小隊長、小隊長に忠実な古参兵、そして主役の水島上等兵だ。
音楽学校を出たばかりというから、小隊長も若いだろうが、水島上等兵は22歳と年齢まで書いてある。
小隊長以外は音楽に素養はないのだが、男声コーラスを組織していく。二部合唱、三部合唱と、高度なテクニックを使える音楽部隊を作っていくのだ。
水島上等兵は、器用な人間で、音感もあったようだし、ビルマの農村で手に入る素材で、竪琴らしきものを作り、この歌う部隊の伴奏をしたり、独自に編曲したりして、独奏もしていたという。

なにもかもが竹山氏の創作であろう。しかし、小隊長と水島上等兵にはいくらかのモデル性があったのか、それで後述する中村一雄氏が水島上等兵のモデルかも、と言われ、古筆了以知、中村氏と同部隊で、音楽学校出、が小隊長らしい、と思われてしまう余地がでた。

ビルマの竪琴がなぜ、あんなに印象に残っているのか・
それは戦争のさなかにあって、歌い続けたこと、その歌がもたらしたいろんな出来事、そして最後の水島上等兵の哀しい別れのシーン、これらがまさかフィクションとは知らず、実話であると、当時の私は思い込んでいた。

だから、ミャンマーへ行くまで、水島上等兵は、仲間と別れ、一人ビルマに残って、野に倒れた戦死者を弔ったのだ、と思い込んでいた。
ほとんどの人たちが同じ思い込みをしていた。

でも、それは小説の余韻であり、仲間に背をむけて去っていく水島上等兵らしい僧が、その後どうしたかは、小説にはない。
その僧が、水島上等兵であることは、残された手紙で判明するのだが、その後の情報はないのだ。

なんと竹山氏はこの話をこんなにドラマチックに組み立てたのだろう。もう感心する以外はない。
彼はこの作品以外、小説を書いていないというけれど、この作品ですべてを出し切ったのだろうか。(続く)

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