SSブログ

「ビルマの竪琴」についてわかったこと(7)

中村一雄氏について、もう少し書いてみたい。

彼は生家の姓は武者、のちに教育費を負担してくれた寺家の跡を継ぐにあたり、中村姓を名乗るようになった。武者一雄の名前はペンネームとして用いている。

ビルマ戦線から復員してのちは、群馬県利根郡昭和村にある雲昌寺で、住職としてくらしたようだ。

彼は僧侶であるとともに、文筆家でもあった。
復員後に「ビルマの星空」(原題は生きているビルマの竪琴)や「ビルマの星飾り、悲劇のインパール作戦」などを出版している。

ビルマの星空は、短編を集めた形をとっている。
*ビルマの土(ビルマ娘マケンボー、歌声運動、不穏分子)
*ジャンジャンマンマ(踊り)(キヌ情緒、星美男子兵長、マセミアン)
*年末年始(長期出張労役、須藤軍曹の奸計、餅騒動、夢を食う相談)
*暴行事件(容易ならざる事件、板ばさみ、結末)
*お祭り(ビルマ寺の”御施餓鬼”、成年式、集団見合、猛練習)
*悲恋の花(哀愁、永劫の別離)
*逃亡者(ポーセンブーの館、屍を見守る鬼、唐草模様の刺青)
*男の町(野外ステージ、女房談義、おやま騒動、よみがえる男の町)
*獄舎訪問(頑固中隊長、なげく敗戦大尉さん、張り切るコーラス団、禅問答)
*歌う旅(慰問隊出動、大成功のラジオドラマ、大当たりの巡演、野鉄部隊の招宴)
*逆襲の暁(逃亡、ギャングの首領)
*ワルツの曲(入船第一報、星兵長は色男、ビルマ娘か帰国か、乗船決定、逃亡の逃亡、悲喜交々、別れの演奏)
*ビルマよさらば
ビルマ戦線に派遣され、インパール戦線も経験している。本の内容は実体験に基づいているから、きわめて興味深い。

現地ものとしては、きっと竹山氏よりすぐれている。しかし、いかんせん、二番煎じであった。
読者の勝手な評からいえば、文章力、構成力、竹山氏に後れをとっている。それに竹山氏の「ビルマの竪琴」の成功のあとの出版、実話に脚色をいれて、よみやすい形にはなっているけれど、ぐいぐいと引き込む力が今一つ不足に思える。

「ビルマの耳飾り、悲劇のインパール戦線」は児童用の図書。

この二つの著書で、ビルマの人々との交流が心温まる。しかし、はたして、ビルマの人々はこれを読んで是とするのだろうか。
人口も少なく、生産性も低い田舎に、押し寄せた日本軍。ビルマの人たちは、日本軍がイギリス軍に比べ、正直で、公平である、と評していたように書いてあるが、実際はどうだったのだろう。軍票での支払い、ただの紙屑になった軍票を、戦後、年を経て再訪したとき、「コーカン、コーカン」と無価値になった軍票を手に、子どもたちが群がったと、随筆に書いてある。

音楽部隊として、土地の子供へ、日本の音楽を教え、またビルマの音楽も学んだ、とある。
いろんな童謡や小学校唱歌などを教えたなかで、「チーチーパッパ」は、ビルマ語で、おしっこをする、という言葉に似ているので、ビルマの子供たちはとうとう歌うことはなかったそうだ。

竹山氏より先に、中村氏が作品を世にだされても、インパクトが強かったかどうかはわからない。

しかし、実際に戦線を生き延びた人の著書は貴重だ。
水島上等兵のモデルとされ、どんな生活を送られたのか、伺うすべはない。

昭和村の雲昌寺を訪れた。山寺と自称されていたけれど、いまや民家に囲まれている。禅寺のためか、お寺にお墓はない。彼もどこに眠るのか、2008年に没せられたのだが、その墓はなかった。
人気のないお寺に、とりつくしまもなく、一礼をして立ち去った。

nice!(1)  コメント(1) 

「ビルマの竪琴」についてわかったこと(6)

中村一雄氏は、現実にビルマにいて、インパール作戦にも参加しているようだ。
彼は、召集されたとき、永平寺で修業中であり、僧衣のまま現れたというので、話題にもなり、記憶された人らしい。

彼はうたう部隊(烈兵団58連隊吉本部隊)に所属していた。

竹山氏の「ビルマの竪琴」が出版されたあと、同部隊に同じく所属していて、音楽学校を出ていた古筆了以知氏が、部隊モデル説を言い出し、中村氏にむかって、「君はさしずめ主人公の水島上等兵だね」といったことから、モデル説が生まれたのらしい。

これは中村氏の著書「ビルマの星空」(ペンネームとして武者一雄が使われている)のあとがきにある。

中村氏が僧侶であったこと、ビルマにいたとき、戦死者の弔いをしてやっていたこと、などからの説らしいが、水島上等兵は最初から僧ではなく、現地で僧侶となっている。

竹山氏はどのように人物像をつくっていったか、などの解説はしていないので、モデルがいるかいないかも不明のままだ。

中村氏は彼自身も作家で、「ビルマの星空」(1997年、近代文芸社刊)、「ビルマの耳飾り、悲劇のインパール戦線」(1997年、光人社NF文庫)を著している。
「ビルマの耳飾り」は、単行本としては、1971年に刊行されているが、それより以前に発表されたものであるのか、1967年に講談社児童文学新人賞を受賞しているのだ。

面白い偶然である。竹山氏の「ビルマの竪琴」も、中村氏の「ビルマの耳飾り」も、児童文学として発表されたものだ。
両者を読んでみて、内容が実にやさしい雰囲気に満ちている。戦争ものであるにも関わらず、なのだ。うたう部隊、そしてビルマの人々との交流、仏教について、もちろん、戦闘の場面もあるのだが、そして「耳飾り」の方は、特に戦闘描写が多くて、戦記物として読んでしまったのだが、児童対象なのか、その底辺に人間のやさしさが描写されているのだ。

中村氏は実際に体験したことを、オブラートに包んで書かれている。脚色もあるだろうが、真実の裏付けもあるのだろう。
竹山氏は創作だ。それが悪いわけではないのだが、あまりに名文すぎた。特に最後のシーンが出きすぎだ。

なまじ、モデルがいる、という話になったので、中村氏のお寺にまで出かけていったけれど、水島上等兵が創作上の人物であって何の不都合はない。

19万人の兵士がビルマの地で亡くなり、またそれと同じような悲劇は、ビルマの人々にも、イギリスの兵士にもあった。
その悲劇は、竪琴や歌といった情緒的なことで美化してはならない。
nice!(0)  コメント(0) 

「ビルマの竪琴」についてわかったこと(5)

「ビルマの竪琴」にどうしてこんなにこだわるのだろう。
そもそもは、その中で歌われた歌が「ふるさと」か「埴生の宿」の思い込みから始まったことなのだが、もう一つ、水島上等兵のモデルになった、という人物がいる、と知ったことにもよる。

その人物については、日本で購入したガイドブックに、「ヤンゴン日本人墓地」という項目があり、そこに”「ビルマの竪琴」の水島上等兵のモデルとされ、2008年に亡くなった中村一雄さんの記念碑もある。”という説明を読んだこともある。

中村一雄という名前、2008年に亡くなられていること、日本人墓地にあるのは記念碑であること、が書かれているのだが、思い込みの強い私は、名前も2008年に亡くなられたことも、墓地を訪れて初めて知ったのである。

映画を見ると、収容所での別れのシーンが強烈な印象を残している。「おーい水島、一緒に日本に帰ろう」という仲間の呼びかけ、あるいは、水島の肩にとまっているインコが「オーイ、ミズシマ、イッショニカエロウ」と繰り返し言う場面は目の裏に焼き付いている(いくらかの思い込みもあるが)。

僧の姿で、去っていく水島、あのシーンを見ると、水島上等兵はそのままビルマに残り、野に山に、放置された日本人兵の埋葬や供養に務めた、と思い込む人は多いだろう。

ガイドさんが教えてくれた、墓碑と信じていた石碑の文字をみて、ショックを受けた。
「ビルマの竪琴」の主人公・水島上等兵のモデルと言われていた、本名 中村一雄
 2008年12月17日没 享年93歳

えっ!10年前くらいまでご存命だったの?93歳なんてすごい長寿じゃない、ビルマのどこで亡くなられたの?

と疑問がわく。

それらの記載の前には、大きく祈 世界平和、とあって、高田歩兵第58連隊、 連隊 本部
曹長 武者 一雄  曹洞宗雲昌寺 云々、がある。
これらの記載の意味がわからなかった。

いろいろ調べたので、今ならわかるけれど。

水島上等兵は竹山氏の創作した人物、かたや中村氏は、ごく一部がモデルかもしれないと思われる人物なのだ。
どこがモデルといわれるのか?それはうたう部隊に所属していたこと、そして僧侶であったこと、の2点があげられる。(続く)

nice!(0)  コメント(0) 

「ビルマの竪琴」についてわかったこと(4)

「ビルマの竪琴」の中で歌われた曲はどんなものがあったのだろう。
新潮文庫の本には、付録で楽譜と歌詞が載っている。それらは
*荒城の月 *朧月夜 *巴里の屋根の下 *埴生の宿 *蛍の光 *春爛漫の花の色(寮歌)*秋の月 *からたちの花 *野なかの薔薇 *嗚呼玉杯に花うけて(寮歌) *庭の千草 *故郷の空 *都の空に東風吹きて(寮歌) *あふげば尊し *海ゆかば

これらの歌をみて、日本の歌のほかに、シャンソンあり、スコットランド民謡あり、ドイツの歌あり、と外国の歌が半分くらい占めている。
日本の歌では、旧制高校の寮歌が目立つ。

と分析しても、これらの歌が本当に歌われていたものか、竹山氏の創作なのか、それははっきりしない。
一つ、参考にできるとすれば、後述する予定だが、このうたう部隊に所属していた人で、水島上等兵のモデルなのかも?といわれる中村一雄氏が書いた曲目だが、演奏会をするとき、まずは日本の歌をメドレーで歌い、次にはホスター(フォースター)の曲をよく歌った、ということがあった。ほかにイタリアのカンツォーネ、シャンソンなども適宜、歌っていたそうだ。

ちょっと疑問もある。日本では英語が敵性語として厳しく規制されていた当時、戦場で、敵国の歌を堂々と歌っていられたのだろうか。

しかし、現地にいた中村氏も、外国の歌を歌っていたことを書いているから、歌えていたのだろう。

そんなところに、なぜ埴生の宿がはいって、ふるさと、が含まれていないのか、私には不思議でしょうがないのだが。

野営ばかりの日々ではなかったようだが、いづれにせよ、ピアノやオルガンといった音をとるために必要な楽器がなくて、楽譜もなくて、ド素人の召集兵たちに、複雑な2部なり3部合唱を教えられたものだ。
彼らがどのくらい音楽の素質を持っていたのだろうか。学校で音楽教育を受けた時代でもないだろう。

その音楽性の高さは、こうして小説になるほどだ。

それにしても、竹山氏の小説があまり見事すぎて、私だけではなく、多くのひとたちが、これを実話と思い込んでいた。
だから、と言い訳になるが、ミャンマーの日本人墓地で、水島上等兵のモデルと言われている、とガイドブックにまで記された人のお墓(ではなかった)にお参りしたいと思ったのだ。

モデル説への疑問のいろいろはまた明日。
nice!(0)  コメント(0) 

「ビルマの竪琴」についてわかったこと(3)

まずは「ビルマの竪琴」の荒筋をみてみよう。
舞台はビルマ、中部にあるマンダレーに近いところか、タイに近い山岳地帯あたり。
時は1943年あたりから46年の復員するまで。
主要な登場人物は、小隊長、古参兵、水島上等兵、彼らが属する小隊隊員、

ビルマの山岳地帯に駐留する日本軍、そのなかにうたう部隊があった。戦闘において歌うわけではないが、部隊が平地で作戦まちのときなど、歌うことで士気を養っていた。
そのなかに水島上等兵がいたが、彼は竪琴をよくし、偵察に行くとき、竪琴を持参し、鳴らす音楽によって、敵の部隊がいる、とか、味方が侵攻しても大丈夫だ、というような情報をしらせていた。

戦局は好転せず、結局、部隊は敵(イギリス軍)に降伏する。
その後、玉砕的に戦う日本軍に降伏を説得するため、水島上等兵が派遣される。しかし、激しい戦闘に巻き込まれ、水島上等兵は行方不明になる。

うたう部隊は捕虜収容所にはいる。そこにビルマの僧が現れるが、水島上等兵によく似ている。しかし、その僧は、彼らの呼びかけに答えない。

日本への帰還が決まり、最期の日、収容所に僧が現れる。そして竪琴を奏でるが、それは部隊が得意としていた「埴生の宿」であった。
収容所に出入りする老婆の手を通して、僧からの手紙が届く。やはり水島上等兵であった。
戦闘の地から収容所へと向かう道に、死んだまま放置されている日本兵を弔うため、帰ることはできない、と、ビルマ僧となった水島上等兵は苦悩の告白をする。

というようなことなのだが、これだけであれば、戦争ものなのだが、児童文学であるかをら、ビルマの農民との交流や、一つには、ちょっと余計に感じる、人肉を食べる山岳民族との出会いなどもはいっている。

竹山氏は、ビルマに行ったことはない。情景描写は、大正年間に旅をした台湾の風物(山間部)を参考にしているらしい。どちらも亜熱帯か熱帯に近い風景である。
首狩り族についても、台湾で聞いた話を用いているらしい。

ルポでもないし、ドキュメンタリーでもない、小説なのだから、風景によほどの間違いがない限り、うるさく言うこともない。

ただ、水島上等兵がビルマ僧になったいきさつや、戒律に厳しいビルマ僧が竪琴を弾く、というようなところにはいくらかの違和感を感じる。

また、部隊が愛唱していた歌にしても、日英交流というのは実際にはなかったらしい。第一次大戦クリスマス時にあった英独両軍の交歓の話をもとにした可能性はある、という解説もあった。

歌についてはまた明日。

nice!(1)  コメント(0) 

「ビルマの竪琴」についてわかったこと(2)

さて、竹山氏はどうやって、この「ビルマの竪琴」の構想を得たのだろうか。
彼は一度も出征したことはないようだ。もちろん、ビルマ出征はしていない。

一説には、ビルマからの復員兵のなかに、竹山氏の教え子がいて、その教え子からうたう部隊のことを聞いて、それを小説化した、というのがある。
しかし、私が読んだ文庫本のあとがきに、そういった事実は書かれていない。
戦争についてなら、戦時中に戦死した、友人や教え子についてならあるのだが、ビルマでの死者はいない。

しかし、ビルマの竪琴の最初の書きだしは、疲弊しきった復員兵の中に、やけに陽気な元気のいい部隊があった。いつも歌っていた。ということで、うたう部隊を紹介している。
それから、おもむろにビルマでのことを掻き出しているのだ。

だれからか、このビルマから戻ってきた復員兵のなかで特徴のあるうたう部隊について聞いたに違いない。

作中の人物としては音楽学校を出たばかりの小隊長、小隊長に忠実な古参兵、そして主役の水島上等兵だ。
音楽学校を出たばかりというから、小隊長も若いだろうが、水島上等兵は22歳と年齢まで書いてある。
小隊長以外は音楽に素養はないのだが、男声コーラスを組織していく。二部合唱、三部合唱と、高度なテクニックを使える音楽部隊を作っていくのだ。
水島上等兵は、器用な人間で、音感もあったようだし、ビルマの農村で手に入る素材で、竪琴らしきものを作り、この歌う部隊の伴奏をしたり、独自に編曲したりして、独奏もしていたという。

なにもかもが竹山氏の創作であろう。しかし、小隊長と水島上等兵にはいくらかのモデル性があったのか、それで後述する中村一雄氏が水島上等兵のモデルかも、と言われ、古筆了以知、中村氏と同部隊で、音楽学校出、が小隊長らしい、と思われてしまう余地がでた。

ビルマの竪琴がなぜ、あんなに印象に残っているのか・
それは戦争のさなかにあって、歌い続けたこと、その歌がもたらしたいろんな出来事、そして最後の水島上等兵の哀しい別れのシーン、これらがまさかフィクションとは知らず、実話であると、当時の私は思い込んでいた。

だから、ミャンマーへ行くまで、水島上等兵は、仲間と別れ、一人ビルマに残って、野に倒れた戦死者を弔ったのだ、と思い込んでいた。
ほとんどの人たちが同じ思い込みをしていた。

でも、それは小説の余韻であり、仲間に背をむけて去っていく水島上等兵らしい僧が、その後どうしたかは、小説にはない。
その僧が、水島上等兵であることは、残された手紙で判明するのだが、その後の情報はないのだ。

なんと竹山氏はこの話をこんなにドラマチックに組み立てたのだろう。もう感心する以外はない。
彼はこの作品以外、小説を書いていないというけれど、この作品ですべてを出し切ったのだろうか。(続く)

nice!(0)  コメント(0)