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Brexite ならぬBreunion

2日ほど前、BSの国際ニュース番組をみていると、Brexiteに反対する人たちがBreunionを唱えているという解説があった。

イギリス国内の動きではなく、大陸側で、Ne nous quitte pas 捨てないで、と言っているのだという。
15日に、メイ首相は議会に離脱法案を提示するのだとか。

採択されるのか、採択されずにno dealでの離脱になるのか、部外者の私には予想できようもない。

離脱に反対する人は、イギリス国内はもちろん、ほかのEU諸国にも大勢いて当然だ。

友人が言っていた。結婚は簡単だけど、離婚て難しいのよ。本当にそのようだ。

ところで、なぜ、こんな時に安倍首相はイギリスへ行ったのだろう。それも夫人同伴で。

15日を待って、あるいは3月末のどんな形かわからないにせよ、離脱となってののちに訪問したほうが、形のある会話ができるだろうに。
もちろん、15日後にメイ首相がまだ首相でありうるか、保証はない。だからこそ、そのあとの方がいいだろうに、と素人の私は思う。

それにこんな短期間の、儀典的な意味はない訪問に、なぜ夫人が同伴するのだろう。

Breunionを求めるひとたちの数がどのくらいあるのか、相当のものだと思うけれど、津波並の力を持ちうるのだろうか。

知人(フランス人)の息子は、イギリスで教育をうけ、その後はずっとシティで働いている。
フランスへ戻るのか、シティで働き続けるのか、動静はわからない。

歴史というのは、こういうふうに現実に動いていくのだ、という一つなのだ、と感じている。

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Mon petit agenda Pensees positives

フランス在住の友人から手帳が送ってきた。
花柄のカバー、キュートな手帳としてはちょっと大振りである。

この友達は、毎年、agendaが送ってくる。プロヴァンスの景色、お花、鳥、なにかを特集したもので、楽しみの品なのだが、今年は「前向きに生きるための、名言・俚諺」とでもいうのか、著名人の珠玉の名言が載っている。

最初に開いたページの名言が気に入った。
"J'ai decide d'etre heureux parce que c'est bon pour la sante"という言葉だ。ヴォルテールの言葉という。訳してみれば、「幸せであろうと決めた、なぜなら健康のためにいいからだ」とでもなるのだろうか。
次のページには、"Pleure. Pardonne. Apprends. Continue. Laisse tes larmes arroser les graines de ton future bonheur"という言葉がある。涙という言葉にひかれた。
「泣きなさい、許しなさい。学びなさい。続けなさい。涙を流しなさい、君の将来の幸せの種をはぐくむための涙を」

きちんと知っていないのだが、大好きな歌がある。歌詞の一部をかろうじて知っているだけだ。「涙の数だけ強くなれるよ」というような歌詞で、Z云々というグループの歌である。残念なことに、この歌を歌っていたメインヴォーカルの女性は、自殺してしまったけれど。

前向きに生きることは考える。毎日、小さなことでも、よかった、と思うことにしている。お天気がよければそれだけでもいい。快食、快眠、快便、そんな日はないけれど、そのうちの一つでもあればいい。
先日は、NHKFMの放送で、チャイコフスキーのイタリア奇想曲を聞いた。この曲は昔から大好きなのだが、CDは持っていないし、そうたびたびラジオで放送されることもない。たまたまラジオをつけたら、ちょうど、この曲が始まったところだった。

これは記録しなければ、というほど大きいいいことには巡り会わないけれど、小さなことならたくさんでてくる。

週に一つの名言、これを楽しみにこれからの1年をすごしていこう。

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消えゆく銀行?

今日は久しぶりに銀行へと行った。
県庁所在地にある都市銀行へとだ。
田舎に住んで、不便なことに、都市銀行がない、ということがあげられる。

2か月に一回程度、記帳のためにわざわざ県庁所在地まで往復4時間をかけて出かける。
パソコンをもっているのだからインターネット銀行にすればいい、と友人には言われ、また銀行でも勧められる。
現金の出し入れは、地元のゆうちょ銀行を利用しているのだから、インターネットのほうが楽なのは重々わかっている。わかっちゃいるけど、なのだ。

今日はさらに一つの口座を解約する目的もあった。
20年ほど前、一つの都市銀行に口座を作った。当時はどうも、いろんな銀行に口座を作って、おそらくへそくり口座にしていたのかもしれない。
その銀行、というか、その後、銀行大合併があり、その銀行は、今都市銀行としては唯一の銀行と同じになった。

残金は1000円にも満たない。わざわざ銀行へ行くのなら、交通費にも満たない。
しかし、気分的には解約してすっきりしたい。まあ、記帳という別の口座の用事もあることだし、古い口座を解約できるものか、試したい気持ちもある、というわけで銀行へと出かけた。

最近読んだ週刊誌に、消えゆく銀行という記事があった。銀行として、昔からの役割がなくなってきたのだという。特に窓口業務がなくなってきたのだとか。これからは、残高の小さい口座については、預金者が管理料を払うことになるかも、というのだ。

スイスの銀行を思い出す。私はスイスの銀行に口座など持ってはいないけれど、外国で働くひとたちの間には、スイスの銀行に口座を持っているという人もいた。
どういうふうなシステムかはわからないけれど、スイスの銀行は、お金を預けていても、利息がはいるわけではなく、管理料をかえって払うのだとか。

そんなことになったら、少額しか預金がないのに、大変だと、1000円未満の口座は解約だ。

そうしてみると、銀行の窓口は入金関係が2つ、その他が2つしかあいていない。そのほかに個室っぽく囲われた場所がある。
座るべきベンチの座席数も少ない。

とりあえずは案内のために立っている人に、解約のために来たことを告げる。それも古い口座で、印鑑も正しいものを持参しているかどうかわからない、とも告げる。

応対はとても親切だ。とりあえずは受付番号をとってくれる。待つことしばし、と言いたいが、ずいぶん待った。
受付番号からいえば、窓口にいる人の次でもいいかも、と思うのだが、窓口で話している人は、何用なのかうかがいしれないが、長い。一人は外国人だ。

久しぶりに銀行の中で待つ。以前はたくさんの椅子がああり、大勢の人が待っていて、やっぱりまたされたけれど、今では、お金の出し入れはATMですませる。
花咲舞だったっけ、池井戸亮の銀行ものにでてくるような女性はいなさそうだ。

結局、先客はまだ窓口、とうとう案内の人が先行できる手続きを、と印鑑や通帳を確認してくれ、入金の窓口で処理してくれた。

そのうち、予約しなければ手続きもできなくなる時代になるのかもしれないな、などと思う。

昔はこうだった、と過去にとらわれず、変わりゆく時代に順応しなければならないのだ。
解約して得た1000円未満の現金は、昼ご飯にかわった。

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御公現祭のころ

日本にくらべ、フランスの新年はそっけない、ように感じる。
クリスマスの宗教的な盛り上がりはなく、12月31日、大晦日、レヴェイヨンのパーティにでも出ないのであれば、普通にすごしていく。
テレビの番組も、もちろん年末特番的だろうが、外国人にとってはあまり感激がない。

1月6日、エピファニーというお祝いはちょっと特別だ。
ギャレット・デ・ロワというパイがこのお祭りを象徴するお菓子だ。アーモンドを素材にしたパイは、さっくりしてとてもおいしい。
この中にフェーヴ(ソラマメ)という小さな陶製のものがはいっている。切り分けたパイにそれがはいっていれば男性なら王様、女性なら女王様になる。

昨年の1月6日、私はパリにいた。エピファニーは代父と祝った。といっても、お手伝いさんが買ってきたパイを、父とお手伝いさん、それに私の3人で切り分けて食べた。
フェーヴは父にあたった。パイについてくる王冠を父にかぶせて、父の健康を祝ったものだ。

父にとって最後のエピファニーになった。
その数年前まで、父の家で甥や姪を招待して、盛大にエピファニーを祝っていたのだそうだ。
母の兄弟が多かったし、ほとんどが4、5人の子供をもうけていたので、甥・姪の数も多く、配偶者もくるから、相当の人数になったらしい。

エピファニーのパーティは簡単だ。だいたい、昼に、昼ご飯をすませて集まることもある。
シャンペンとパイ、それだけでもいい。

そんなエピファニーのパーティは、母が体調が悪くなり、ついで父も、と、大人数で集まることがなくなったのだ。

お手伝いさんとたった3人でのエピファニー、シャンペンもない。

と、去年のエピファニーを思い出している。

父はそれから2ヶ月後、亡くなった。

今年はパイも、シャンペンもない。去年、父があたったフェーヴは、私が持っている。

フランスではジレジョーヌ(黄色のヴェスト)の騒動がまだ続いている。単発的に行動していたものが、連携していくのだという。
今年、フランスも波高しのようだ。

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新年の目標

血のつながりはないけれど、かわいがっている高校生(赤ちゃんの時から知っている)が、年賀状にアンティの今年の目標はなんですか?と聞いてきた。
まあ、自分の目標を書いているから、お愛想に私のも聞いてきたにすぎない。

しかし、この種の質問はがつんとこたえるのだ。

新年の目標なんてそんなことを考えていたのは、いくつくらいまでだっただろう。
高校生のころまでは、試験の平均点をあげるとか、成績順位を上げるなどの至近的目標を掲げていたものだ。
大人になると、いい人に巡り合いますように、とか、仕事のレベルアップを願ったこともある。

今や、現状維持ができますように、くらいが関の山だ。

体も脳も、レベルアップなどは望めない。薬の数が少ない現状、これを維持することが精いっぱいのことだ。

脳もいい加減、退化が進んでいる。
先日、まだ若い人と話しているとき、文学の話で、谷崎潤一郎の名前がでてこなかった。今、でてきはしたけれど、何が話題であったかは全く覚えていない。

百人一首の箱を、正月飾りで出していた。それを見た人が、かるたができるのですか?と問う。
百首全部はもう覚えていないけど、「むすめふさほせ」くらいなら、というと、その若いひとは、「むすめふさほせ」って何ですか?と聞く。
最初の文字が一首しかない歌のことよ、と説明しながら、む、は出た。村雨の。。。だ。あとが出てこない。す、は墨染の、だったっけ、と聞いても、若い人には通じない。

日本語でこうなら、外国語はもうまったくのゼロに近い。

なら、今年は外国語、カムバック、と言いたいところだが、使うこともない外国語、いったん消え去るとどうしようもない。

そうだ、外国旅行を目標としてもいいのか、と考え直す。

しかし、予約などの手続き、フライトの時間、生理的な欲求の調整、面倒なことを思い出すと、外国旅行もできるかどうか、わからなくなってくる。

まあ、その分、高校生の子が成長してくれればいいのか、と自分を納得させる。

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駅ピアノ

昨夜は最悪だった。2時ごろ、目が覚め、それから眠れない。
真っ暗にしても眠れないので、テレビをつける。
テレビを30分か60分のタイマーをつけてみていると、眠れることもあるので昨夜もそうしたのだ。

地上波とBSのチャンネルをいろいろ探る。
BS1では駅ピアノをやっていた。これまでにみたことのある番組だ。再放送、かついくつもの駅を連続して放送している。

駅ピアノの放送が始まる前に、実際、駅ピアノをみたことがある。
フランス、パリでのことだ。最初は北駅でのことだった。
ベルギーやイギリス向けの国際列車の出発口をみるために、駅をうろついていると、ピアノがおいてある。その時はだれもひいていないし、駅ピアノというシステムも知らなかった。

次にみたのは、リヨン駅であった。ここは南仏へ行くとき使う駅なので、なじみがある。
広いコンコースにピアノがあるのを、トラン・ブルーというレストランの入り口からみていた。
そこではだれも弾いていなかったし、そのあとも音が聞こえなかった。

BSの番組で、この駅ピアノというのが世界のいろんな国の駅に存在することを知った。
昨夜というか夜中の番組では、アムステルダム、プラハ、ロスアンジェルス、パレルモ(ここは空港だった)などであった。グランドの場合が多いけれど、アップライトの場合もある。

弾くひとたちが多種多様である。ホームレスもいる。難民のひともいる。曲目も多様だ。私にとって、ピアノから想像するのはクラシックの曲であるが、ジャズやフォークもある。結構多いのが自作の曲だ。

そして、この駅ピアノでピアノ演奏を学んだという人も多い。これにはびっくりだ。教えてくれる人がでてくるらしい。
もちろん、これは編集されているから、聴くに値する演奏で、値しない演奏はカットされているのだろう。

私もフランスで弾いてみようか、と思ったのだが、いやというほど弾いたはずのショパンのノクターンですら、最初のキーがなんだったか、忘れてしまっている。だれも知っている人はいないし、失敗してもいいはずなのに、実際にピアノの前に座れないのは、勇気がない証拠だ。

そんなことを思い出しながら、テレビをみて、とうとう4時になってしまった。
ピアノの練習をしよう、と思っていたのだが、睡眠不足で目がひりひりしてとてもできなかった。

次回、パリで駅ピアノをみつけても、やっぱり弾けそうにない。
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年賀状考

元旦、10時くらいに年賀状が届いた。
この頃、年賀状はあまり評判がよくない。

虚礼という人もいる。お金の無駄遣いという人もいる。
虚礼という人は、きまりきったお祝いの言葉を印刷しただけの年賀状に、心がこもっていない、というのだ。
お金の無駄遣いというのは、1枚62円の年賀はがきが高いというのだろう。
終活といって、もう出さないという人も増えた。

年賀状に否定的な意見が多いなか、私は意見を変えた。年賀状肯定論者になったのだ。

たった62円で、新年のあいさつができるなんて、安い!これがカードとなれば、最低でも200円ほどするし、それを封筒で送れば82円はかかる。1通に300円はかかることになる。

虚礼というけれど、日ごろ、ご無沙汰しているけれど、気になる友人、知人へ、年に1回、ご無沙汰お詫びやご機嫌伺いができるいい機会である。

私はあまりメールを好きではない。メールで、いろんな動画やカードを添付して送ってくださる方もいるけれど、自分がそれをできないこともあって、負担に感じることもある。

定型的な文章、そして宛名も文面もプリントのみ、という年賀状はもちろんあまりうれしくない。
一言だけでも、宛名の人を思っていますという文はあらまほしい。
それにしても年賀状というのは便利なものだ。いろんな報告も書きこめる。

姪からは彼女の2人の息子たちが去年結婚したことをしらせてきた。甥の年賀状には、娘が入籍したとある。姪も甥も、日ごろご無沙汰だから、こうして報告できるのは便利なことだ。

そのほかに、転居、転職、退職、結婚、出産、たまには離婚、そういった情報を、さりげなくお知らせするのに、なんといういい手段だろうと思う。
いちいち、挨拶状など出さないで、こうして年初にお知らせすれば、それで無礼というわけでもない。

今回、高校時代の友人からは驚きの情報がもたらされた。去年は3回入院、2回手術しました、という記載があるのだ。どんな病気かはわからないが、とんでもないことだ、とすぐに電話をかけた。
彼女の誕生日には毎年電話するのだが、ほかは連絡などしない。大変な病気でなければいいが、と心配したが、彼女の声は明かるかった。
これから入院というのではなく、昨年、もう済んだことだから書いたけど、そんなに心配したの?と返って彼女が私を励ましている。

そうしてみると、いろんな人たちが、療養中だとか、体調不良を書き込んでいる。

亡くなったつれあいがそうだった。いつも、小さい字で、近況などを書き加え、そのために、1枚1枚にかける時間が多く、なかなか年賀状書きが終わらないのだった。
しかし、それだけに受け取る人からは好評で、楽しみにしています、と書いてくださる人も多かった。
最後のころは体調不良のことばかり書くので、年賀状にふさわしくないと、注意することもあった。

もう仕事もしなくなり、個人から個人への年賀状がほとんどだ。出してくださた方の顔が全部わかる。年に1回のご機嫌伺い、貴重な習慣だと思っている。
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