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立ち食い文化

この頃、立ち食いをする外国人観光客の弊害が声高に言われるようになった。
特に、京都の錦小路や浅草などがその例としてあげられている。

そもそも、立ち食いは昔、お行儀が悪いといわれていた。祖母や母から、ものを口にいれるときは、ちゃんと座って。それに人前でくちゃくちゃ、たべてはいけない、飲み物もちゃんと座って、と口すっぱく言われて育ったように思う。

だから、大人になって、帰国子女の友人がコーラなどを飲みながら歩いたり、電車の中まで持ち込むのにびっくり仰天、アメリカでは許されるのか、かっこいいな、と思った。
また、フランスでは「お菓子の好きなパリ娘」ではないが、パティスリーでエクレアを買い、すぐに食べるから、というと、薄い紙にはさんでくれる、それを歩きながら食べる、というのがパリジェンヌになったような気にさせてくれた。

今ではそんなこともないが、昔はパリで歩きながら食べていると、それがお菓子だったり、サンドイッチだったりだが、その辺のひとがBon appetitと声をかけてくれる。メルシーとお礼をいうものだ、と教えられた。
この頃は歩きながら食べる人をそう見かけないような気がする。

日本でも、銀座にマグドナルドがお店を開いたころか、あるいはビュッフェスタイルのパーティが増えてきたころからか、立ったまま食べるという動作に、慣れないものの、受けて入れていったように思う。

若さの反抗だったが、イギリスで初めて吸ったタバコ、これを歩きタバコでしたときに、大人になった気がした。そして日本の封建的な家庭教育を乗り越えた気分になったものだ。

今では、ばかばかしい反抗だったと思うし、立ったまま食べると、どうも消化しないようで、なるべく座って食べることにしている。
レセプションで、立食、というと、もう食べないほうがいいのかも、と思うようになった。

外国人には、立ち食いについてタブーはないのだろうと思う。だから、なぜダメといわれるのか、不思議なのだろう。それに食べかすやパッケージなどをきちんと処分しないというのも、ポイ捨てが当たり前という国もあるのだ。

日本人の感覚で、日本人のマナーのよさが当然と思っていては、齟齬が生じるばかりだ。
それかといって、むやみやたらに食べ散らかされては、迷惑至極でもある。

日本はとても清潔だ、と評価される裏には、きれいに保つための努力をしていることを、外国人観光客が理解してくれるといいのだが。

アフリカで、バスで移動しているとき、同乗していたその国の大臣が、車をとめ、バナナを買ってくれた。それぞれに食べたあと、私がバナナの皮を集めようとしたら、そんな必要はない、道路にポイ捨てすればいいのだ、という。しかし、それでは道路が汚れるではないか、というと、いやいや、ポイ捨てしておけば、そのうち、土にかえるからよほどエコなのだ、という返事。
それもそうか、と思わせられたが、日本ではそういうわけにはいかないな。

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携帯を忘れただけなのに

「携帯を落としただけなのに」(正確なのかどうか?)という映画が上映されているそうだ。
なにか、こわいことになる話らしい。

落としたわけではないが、今日、東京へ行くにあたって、携帯を忘れてしまった。
新幹線の中で気が付いた。

取りに戻るわけにはいかない。今日の用事は2件、ランチの約束と、そのあと友人と会うことになっている。

どちらも、最終的に携帯に電話しあうということになっている。先方は、私が携帯を忘れたなんて知らないで、連絡してくるに決まっている。

一応の場所と時間は決まっているので、電話がかかってくるとすれば、なにかの変更があるときだろう、その時はそのときのこと、とほぞを決めた。

しかし、こんなに携帯依存の生活をしているとは、思いもしなかった。

新幹線の中でも、つい携帯を探す。時間つぶしにメイルがはいってはしないか、確認したいのだ。

結論:忘れた場所が自宅であり、映画のようなことになる可能性はなかった。
それにランチも、そのあとの約束も、時間通りの、変更も事故もなく終わったので、携帯がないという不安感はあったものの、無事にミッション終了である。

また、まだまだアナログを抜け出せないでいるので、テレフォンカードを残していたし、手帳に友人の番号を書き留めていた。携帯を忘れたことを連絡したので、連絡不能ということにはならなかった。

友人は、まったく携帯に入力して、アナログ部分がないそうだ。だから、携帯がなければ、お手上げだという。

こういう携帯依存の生活、はたしていいのだろうか、と思いながら、自宅で携帯を手にしてほっとした。
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10連休反対運動をしよう

昨日、脚の血流(血行)が悪いので、整骨院へと行った。

脚の治療をしてもらいながら、世間話をするのが常、それが楽しみでもある。

今年も残る50日ともあって、これまでとこれからが話題の中心。丁度、10連休が閣議決定されたというニュースをみたのか、これ、だれが喜ぶのだろう、という話になった。
そもそも、10連休は、人を喜ばすためではない。
だからこそ、なんで10連休なの?といいたいのだ。

なんでご退位、ご即位をこの5月の、ただでさえ連休なのに、そこにもってきたの?と今でも疑問なのだ。

高齢化によるご退位も、皇太子さまのご即位にも、なんの異論はないのだが、なんでこうなるの?というのが関係ない立場にある我々、すくなくとも整骨院と私の意見である。

10連休といっても、完全に休まなければならない職業というのは、法律で縛られるところだったり、労働協約を結んでいるところだけなのかもしれない。
現業部門については、それなりに稼働するのだろうが、彼らがいうには、10連休なんてしたら、おまんまが食べられない、とのこと。

そうゆう人は多いはずだ。

お金のある人、休める人は、きっと外国へ逃げるね、という。

じゃあ、お金のない人はなにしている?というと、なにもできないで、じっとこもっているしかないね、という。

よーし、我々だけでも反対運動しようよ、と呼びかける。
夏時間の採用など、反対運動をするテーマだらけの現今だ。


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ヤマガラとの付き合い方

先日来、一羽のヤマガラが手のひらにのせたエサを食べるようになった。数年らいのことで、とてもうれしかった。

最初はジイジと鳴き声を真似した名前で呼んでいたが、濁音2つで響きがよくないので、別の名前にした。亡きつれあいの名である。

朝は私の起床を待っているのか、寝室の雨戸をあけ、ベランダに出て深呼吸をしているところに現れたり、階下におり、やはりベランダの雨戸をあけていると、早速に現れる。
「おはよう、今日も元気ね」と早速ひまわりの種を手にとって、彼(彼女かもしれない)に差し出す。

一粒をくわえて飛び去る、こちらは部屋にはいって、着替えたり、朝食の準備をしたりする。しかし、そんな暇がないほど、あっという間に戻ってくる。
少し、無視していると、ガラスのところで、あっち飛び、こっちとび、そしてホバリングをしたり、網戸につかまったり、ありとあらゆる示威行動をとる。

ヤマガラについての疑問がたくさんある。
一粒ずつしかくわえられないのはわかるけれど、1日、何粒食べれば満腹といえるのか?
きちんと中の果実を食べているのか?
時々、来なくなるとき、よその家でごちそうになっているのか?

ご近所の友人宅が、とうとう東京へと引き上げた。彼らの家では、2羽が手から食べていたそうだ。その2羽は、これからどこでエサを入手するのだろう。

我が家にきてもいい、と伝えてね、と言ってはおいたが、彼らが2羽に伝えたかどうか、また通じたかどうかはわからない。
それに1羽だけでも、ひっきりなしのおねだりに音を上げているのに、これにあと2羽が加わったら、私はお手上げだ。

しかし、私のあとを慕って、サロンとは反対側の洗面所や和室の外でもホバリングする姿をみると、いとおしい。

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冬の花粉症

昨日は最悪だった。あまりの好天に、洗濯はもとより、お布団も干した。
敷布団、掛布団、枕、を干し、洗濯も大物もふくんでたくさんした。

そして夜、就寝時のことだ。一日中、目がひりひりしていたのだが、さて、寝ようとしたとき、もうひりひりの度合いが辛抱できないほどになった。

このひりひり感(こういうふうにやたらと感をつけるのはきらいなのだが、便利)はもうずっと以前からしている。
特に右目がひどく、2月ごろから始まる花粉症の症状と似ている。

冬にも花粉症ってあったっけ?花粉というより、落葉時に発散する木々の分泌物のアレルギーなのだろう、と思っている。
おそらくはカラマツか?

あまりのヒリヒリ感に、タオルケットで拭こうとして、あ、これも干していた、と気づく。枕に顔を近づけて、これもやばい、と気づく。
結局,清浄綿を使って目を拭くと、少し楽になった。

あまり話題にはならないけれど、この落ち葉のシーズンに落ち葉アレルギーというのはないのだろうか。

ここに住む限り、この症状は耐えなければならないのだろうか。

落葉はほぼ90%は済んでいる。あと少しの間の辛抱なのか。庭につもった落ち葉も問題だが、このアレルギーはもっと深刻だ。

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ネーミングの効果

昨日、テーブル式こたつ、と書いたけれど、使い方を書いたものを見ると、「ダイニングこたつ」とあったこたつ。どちらがぴったりくるだろう、と思いながら、テーブルというのは座卓でもテーブルだし、ダイニングというのも、洋風を想像するけれど、別に椅子に座ってとは限らない。それに一人用とか二人用というのに、ダイニングというのもいささか大げさすぎるような印象を受ける。

それなら「いす式こたつ」ならどうだろう。椅子を使用するということで、座式ではないことがはっきりする。
いずれにせよ、掘りごたつなどと違って、まだ広辞苑には採用されていないだろうし、業界でもきっと品名として定着していないのだろう、と思う。

さて、ネーミングという点で、ユニクロでびっくりした。
毎年、といってもこの3年だが、この季節に、友人に佐久のユニクロに連れて行ってもらう。冬用の衣類をそろえるのだ。
昨年はヒートテックの下着を買い、大変重宝した。今年は、その追加をしようと思っていた。

ところが友人曰く、ヒートテックはもう流行おくれ、今年は暖パンに極暖よ、とのこと。

そもそも、東京へ出たときでもユニクロで買い物をすればいいのだが、この友人のガイドが必要なのだ。私の生活がわかってくれているので、何が必要で、何はいらない、とか、当地の寒さに耐えるには、こういったものが必要、と適切なアドヴァイスが得られる。

結局、この暖パンなるもの、極暖と書かれたものを購入することになった。
極暖については、英語でHeat Tech Extra Warmとある。そうか、訳すれば極暖になるのか、と納得する。

暖パンの特徴は、防風、撥水、あともう一つの特徴があるのだそうだ。テレビの宣伝もみるけれど、モデルは若い男女、田舎のおばあさんにはとても似合わなそうにも思う。
だから、友人の経験に基づくアドヴァイスが有効なのだけれど。

新しいネーミングにあわせる感覚をもっていなければ、現代社会はのりきれない。

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テーブル式こたつを購入

去年からほしいと思っていたテーブル式こたつを買った。
去年は、取り扱いをしているホームセンターへ行くのが遅く、店頭にもう展示されていなかったことと、価格が今一つ、高いと思わせるものであったことから、あきらめた。

今年は別に買おうと思っていたわけではなかった。去年、それなしですませたこと、いろんな不便を耐え忍ぶという、昭和の美学に染まっていることもあった。

ところが、昨日、近所の友人夫妻と、長野県の、といっても県境をこえてすぐの街だが、そこの大きなホームセンターに行ったのだ。
友人の夫のほうが、ホームセンターマニアで、買うものがなくても行きたがる。それにつられて店をのぞいたのだが、こたつの展示箇所に行ってみることに。

一人用、二人用、と種類が増えている。おひとり様の私なら一人用でもいいのか、と思うけれど、どうも病院のテーブルみたいな大きさでさびしい。
お二人様をみると、一人でもいいし、二人になってもいいという大きさだ。

しかし、在庫切れ、入荷見込みというところは記入がない。友人が店の人に聞いてくれる。
ちょっとお調べしてきます、といってバックヤードにいった係りが、入庫していました、という。

なんだか、買うムードになってしまった。友人の車は、トランクが大きくて、持ち帰りできるという。何もかもが買うことに傾く。

価格も昨年、インターネットなどでチェックしたものよりずいぶん安くなっている。
進化しているのかもしれない。

さて、今日は、その組み立てを友人がしてくれる。昔ならこたつはこたつ布団をかけるもの、こたつ布団は、木綿わたで、分厚いと決まっていたが、今はふわふわの生地で軽いし、小さくくるまれている。

椅子には、スカート(と呼んでいる)がついていて、こたつの暖かい空気が逃げないようになっている。
今日は、特に暖かいのだが、せっかくだからと、こたつの電気をいれて、中に足をいれてみる。

麻雀に丁度いい大きさのテーブルじゃない?と友人がいう。これはいいわね、椅子はこれまでの食卓の椅子でも代用できるし、麻雀できるわよ、と友人が喜ぶ。

我が家には、8畳間に、1畳分の掘りごたつがある。しかし、畳の上に座り込まなければならない、というので、数年前に閉じてしまった。
こういう椅子式のこたつ、なかなか便利のようだ。

5年早く買いたかった。つれあいが足が冷えると、常に言っていたからだ。電気カーペットは足の裏は暖かくなるけれど、下半身は寒いままだった。
なにもかもが遅きに失した、と思うけれど、世の流れ、仕方がない。
今年の冬は暖冬なのか、厳冬なのか、一つの対策はとれた。
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国境なき医師団の新戦略

私は「国境なき医師団」を支援している。
経済的に余裕はないけれど、倹約に成功したとき、予定していた出費をしなくてすんだとき、などの丘ねをそのときどき、寄付する程度だ。

支援者リストに名があるためか、月々、ニュースレターみたいなものが送られてくる。活動報告、支援の要請などのプリントが入っているのだが、今月は、「ご家庭に眠るお宝が国境なき医師団日本へのご支援になります」という印刷物がはいっていた。

つまり、お金のかわりに物品での寄付をどうぞ、ということだ。

テレビで、鑑定団とか、お蔵のお宝発見、とか、不要と思っていたもの、あるいは価値のわからなかったものなど、鑑定をうけてその価値を知る、ということができるようにもなった。

骨董品だけではない、未使用の切手、はがき、あるいはブランド品、金券など、金額がどうなるかはわからないけれど、現金に換えられるものもたくさんある。

だから、これらのものをお金にかえて、国境なき医師団への寄付にあててほしい、ということだ。

これも一つのアイディアだ。現金はないけれど、モノについてはいろんなものがたくさんある、という人も多いだろう。我が家も数年前だったら、モノもあった。

しかし、この形の寄付は、直接、医師団へ送るのではない。お宝エイドという組織にものを送り、そこで買い取りが決まれば、その金額を医師団へ寄付していいかどうか、確認の上、このお宝エイドが自身の寄付も併せて、医師団へ送るという手続きになるのだという。

このところ、予期せぬ出費が続いて、寄付をすることからは遠ざかっている。
送るべきものもないから、やっぱり倹約に励まねばなるまい。

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キャディー付きのゴルフ

久しぶり、正確にいうと1年ぶり、でも昨年のゴルフはハーフラウンドだけだったから、きちんとワンラウンドのゴルフという点でいえば、5、6年ぶりになる。

友人夫妻に誘われて、今年初めて、そしておそらく最後になりそうなゴルフに出かけた。

友人夫妻と私の3人でまわる。友人の妻のほうが、ゴルフの初心者という話で、キャディーさんを頼みました、という。

キャディーさんがつくゴルフなんて、何年振りやら。もしかしたら、アフリカでのゴルフ以来かも。

助かった、と思うのは、ボールの行方をきちんと見ていてくださる。友人夫妻はずっと年若いなので、ボールの方向などわかっているようだが、私ときたら、足元のティーの上のボールは見えるけれど、打った瞬間から、もうどこにいったのかわからない。
こんなに視力が落ちているとは思いもしなかった。
キャディさんがいなければ、ロストボールになったり、探すのに時間がかかったことだろう。

ゴルフ場はカートでまわった。いくらかカート乗り入れ禁止の場所もあったけれど、フェアウェーでも乗り入れできる。脚が悪いと一言言ったら、ボールのすぐそばまでカートでつけてくれる。

あまり歩くことがなくて、脚が痛いことを忘れてしまったが、ゴルフのだいご味、つまり歩くという楽しみは味わえなかった。お天気がよく、風もなく、最高の日よりだっただけに、紅葉をたのしみつつ歩く、という喜びが味わえなかったのはとても残念。

クラブの選択が的確。もちろん、キャディとしての必要条件であろうが、あまりに正確で、こちらが選ぶより、もう頼りにしたほうが安心。


男性のティーと女性のティーが離れている場合、男性が打ち終わるまで、カートで待機、ということになる。傍で打ち方拝見ということができず、もちろん、やろうとすればできるのだが、待っててください、と言われると、素直にカートで待つのであった。

グリーンでもすべての条件を教えてくれる。フックだ、スライスだ、と言われると、数年ぶりのゴルフではフックってどっちへ曲がるんだっけ、と迷う。ホールのそばで、こちら側をねらってと教えてくれるので、ラインを読むなんて難しいことはしなくてすむ。

ボールを洗い、クラブを拭いてくださるから、なにもしなくていい。
グリーンにのせる前、ピッチングで打ち終わると、すぐにパターが渡される。何本もクラブをかかえてグリーンにのぼっていたことが嘘みたいだ。

アフリカ時代のキャディさんは、こんなに詳しく教えてくれるのではなく、カートがないゴルフ場で、運んでくれるだけだった。

ある一定の年齢になると、キャディさん付きのゴルフがいいのかもしれない。
などと、考えながら、久しぶりのゴルフを終わった。少し忙しいゴルフだった。


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クレジットカードとポイント

来年の10月、消費税が10%にアップする際、還元するのに、カードを使用すると、ポイントをくれるのだそうだ。
この場合のカードというのは、クレジットカードなのだろうか、デビットカードなのだろうか。


カードを持っていない人にとっては、なんとも不公平なやりかた、という批判もでている。

カードを持っていない時代を思い出した。ずいぶん昔になるが、カードを持つという特権は、限定された人たちにだけ許されていた。
私はその限定された人たちのなかに、なかなか入れなかった。

少し高額な支出をするとき、さりげなくカードで払うとか、あるいは海外で、いちいち外貨をたくさん用意する必要がなくなる、という利点から、どうしてもカードを作りたかった。

銀行での審査が厳しかった。勤務先が信用のおけるものであること、勤続年数がある程度あること、給与がある程度の高額であること、など、女一人のカードづくりにはたくさんの条件をクリアしなければならなかった。

結婚して、仕事をやめ、カードの名義を変更するための手続きのときも、いろいろ言われた。収入がなくなるのですよね、ご主人の家族カードになさって、このカードは解約されてはいかがですか?
余計なお世話だ。夫の家族カードを持つことと、自分名義のカードを持ち続けることとは別問題だ。
友人が言った。離婚とか死別とか、また一人になることもあるのよ、自分名義のカードはちゃんと持ち続けるべきよ、と。
それは正しかった。つれあいの口座の家族カードは、つれあいの死去と同時に、娘が解約、もう使わないでください、と宣言されてしまった。使用はしていなかったけれど、持っていることに意義はあったのだが。

今は、とても簡単にカードは作れる。いろんな組織が囲い込みのためにカードを作らせる。昔のあこがれだったアメリカン・エクスプレス、アメックスにしても簡単に持てるようだ。
ただ、クラスも増えた。たとえばヴィザでは、以前はシルバーとゴールド、それにプラチナの3種だけだったように記憶しているのだが、今や、友人の多くがブラックという、その上のクラスのカードを持っている。

カードを作っても、しばらくは、カードは使わなかった。一種の借金みたいに感じていたし、使い過ぎを警戒したり、どうしても現金主義から抜け出せなかった。

よく使うようになったのは、友人がポイント利用を教えてくれたことにもよる。
友人のアドヴァイスより前に、知人の知人というのか、ある人は、電気代からあらゆる出費をカード払いにして、そのポイントをマイルにかえ、冬にハワイへ行っている、と聞いたのだ。

ハワイは無理でも、ポイントをたくさん溜めれば、モノに交換とか、金券にも変えられる、とかいろんな利点があると教えられ、つれあいがいろんな出費を私のカード払いにした。

しかし、そううまくいくものでもない。我が家の出費など、たかがしれているので、ハワイなんていうのは夢のまた夢、モノに変えるのがせいぜいで、それもたいしたものではない。

一人暮らしになって、買い物というのもたいした量ではなく、消費意欲もうせている。もちろん8%から10%になれば影響はうけるけれど、その差をポイントで還元するといわれてもなー、という気分である。

それにキャッシュレスに移行と言われると、都会ならともかく、田舎ではカードが使えず、現金が必須だ。カードを持てない人との不公平も言われているが、地域の不公平さも考えてほしい。

もちろん、フランスのように、どこにいっても、カードで払えるようになるのが望ましいけれど、カードの不正使用もこわい。

ポイントもいいけれど、それより、その分をその場でひいてくれるとか、そうすると、消費税をアップしたことにならないだろうし。

毎日の新聞をコンビニで購入しているのだが、銀行カードでも買えるとは思いつつ、たった150円の新聞のために、銀行カードを出すのがこわくて、小銭を必ず用意するようにしている。
ポンタやらあるいは楽天、ライン、なんとかかんとか、いろんな決済方法もあるというけれど、
キャッシュレスに慣れるのはまだ時間がかかる。


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