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ギリシャのトイレ事情

日本で素晴らしいと思うことは何ですか?と、今回、空港であった人、機内で隣り合わせになった人、外国人なのは当然だが、聞いてみた。トイレが素晴らしかった!と全員、合計で5、6人だが、口を揃えて言う。

Jalのパリ便には洗浄システムが付いているが、外国の飛行機にはついていない。今回利用したエミレーツ航空も、少なくともエコノミークラスにはついていなかった。いささか痔状態みたいな感覚で、ドバイ国際空港に着いた。ここのトイレには長いホースの洗浄装置が付いている。

東南アジア以来だ。懐しいけれど、使い慣れないから、ここでは使わない。水を振りまいて、自分も濡れてしまうと困るからだ。
しかし、東南アジアで、これを使って、お尻の状態が改善した事は覚えている。どうしようもなくなったら使うことにしましょう。

さて、友の家に着きました。トイレというか、便器は2つある。トイレとしての個室と、お風呂場だ。
とりあえずは、トイレの前で焦ることもなくてすみそうだ、と一安心。
個室の方には、ホース付きの洗浄装置もあるが、彼女が使っているかは不明。使わないことにする。

夜、就寝前のことである。友が、トイレの紙はそのまま流しているの?と聞いてくる。そうよ、と返事をすると、ギリシャではながさないのよ、と言う。
じゃあどうするの?と問えば、容器に捨てるのだと言う。容器って?とトイレに行ってみると、蓋つきの容器が両方の便座の脇に置いてある。

郷にいれば郷に従え、だ。
しかし慣れない動作だから、まず、便座に座る前に、事後は容器に捨てること、と呪文をかけておかないと、つい忘れて、ペーパーは水の中に落ちている。

それから、外でトイレを使うときにも気をつけた。すくなくとも、この地方では水に流さないようだ。
アテネなどもそうなのかはわからない。

どなたか、作家の方が書かれたことをおもいだした。排水というのが、文化度を図る一つの目安だと。
そうかもしれない。水洗になっていても、使用後のペーパーを便器に捨てるな、とあるのは、途上国が多い。
ギリシャよ、君もまだ途上国か!と言いたいが現実はそうだ。

さて、容器の中身だが、友は毎朝、黒いポリ袋にまとめて、道路に設置された大きな収集ボックスに捨てている。介護しているははおやのものもあるだろうが、この種のものは、毎日処分することが大切だ。

この収集ぼっくす、いつ回収されているかは知らないが、毎日必ずされないと困るだろう。
政情不安などで、回収が滞ったりすることの無いように、せめて私がいる間だけでも、と慣れないトイレ使いに身の(お尻)置き場のない日々を過ごしている。
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日希減量作戦

この31年の間に、それぞれいろんなことがあった。私の人生もドラマチックと思っていたが、クーラの人生はもっときびしいものだった。
その一部始終とはいかないが、少しずつ話しているところだ。

31年の間、長い無音の時期があった。その間が彼女にとって難しい期間であったのだろう。
今、彼女は恐ろしいほどに太っている。彼女の母親は、スラリとした人だったので、肥満は遺伝的なものではない。

食べることが好きなのではあるのだろうが、食卓に並ぶ料理の数と量が半端ではない。好意を無には出来ず、出されているものを全て食べると、胃から口元まで食べ物で埋まった状態になる。
朝、昼、晩と3食の終わりに胃腸薬の必要性を感じた時、彼女に提言した。食べる量を減らしましょう、甘いものを食べないようにしましょう、と。

彼女はスイーツに目がなく、外出のたびに、スイーツショップに寄る。トルコ系というのか、アラブ系と言うのか、こってりしたスイーツが大好きだ。私も好きだし、ここで食べられるのは嬉しいのだが、程度ものである。
それに彼女は常にフレッシュなものを、と残ると処分している。もったいない、とんでもない。

私が帰ってからという禁スイーツを、私が監督するから、と昨日からスタートさせた。コーヒーに入れる砂糖だけは見逃し、それから甘いものは食べていない。

31年前は60キロだった。今や90キロだ、と嘆いている。嘆いているばかりでは体重は増えこそすれ、減ることはない。まずは人生を明るいものにしようと、短期、長期の計画を立てる。

92歳の母親を一人で介護しているし、25年前に離婚した夫のこともトラウマになっていて、ストレスの大きさは理解できる。でも体重の問題もストレスになっているのだから、これを解消するのが一番手っ取り早い。

私が、連れ合いを亡くして6キロは痩せた、というと、自分だったらやけ食いタイプだという。

食べる量を減らすことが一番効果があるけれど、介護という逃れられない毎日の仕事があるから、力が出ないのも困る。

日希共同作戦と銘打って、大ダイエット作戦スタートしたばかりである。


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危ういところでした

最低気温が4度という今日、カストリアという、湖畔の街へと出かけました。
なんの予備知識もなく、ただ友が連れていってくれるままです。

コザニから1時間半ほどの距離です。マケドニアとの国境に近いところにあるという説明でした。
マケドニアという国名は、ギリシャ人は使いません。なんだかややこしい呼び方をしていました。
ここにはロシア人がたくさん入っているとのことです。飛行場があって、モスクワとの直行便も出ているとか。

キプロスには半端ないロシア人が住んでいるとは聞いていますが、気候もさしてよくないギリシャ北部の、湖があるといってもそう風光明媚でもないところみたいなのに、なんでロシア人が、と疑問でした。

町に近づくに連れて、毛皮屋さんの広告ばかりになります。ロシア資本が毛皮産業にはいっていて、今では乗っ取られた状態と言うのです。

会社名と言うのか、店名と言うのか、ギリシャ語なのかロシア語なのか、読めないので判別できません。

カストリアに着いて、湖の周囲を先ずは回ってみよう、と湖畔ドライブをしました。なんだかうすら寒くて、秋になりかけ、景色も冴えません。車から出ると、寒風吹き荒れる、というような状態で、早々に引き上げることにしました。友は母親介護中ですから、あまり時間が無いのです。

でもせっかくだから、帰り道に毛皮屋さんに寄ってみたい、と頼みました。
じゃあ、31年前、けがわを買ったお店に寄ってみようか、というのです。そうなんです。31年前、母と来た時の、毛皮屋さんによって、いろいろ試着して、時の勢いで、ミンクのコートを買ってしまったのです。
このことは、友も、その娘たちも記憶していて、今回も話題になりました。

お店は閉まっていました。少しホッとしました。でも友はいくつもある呼び鈴を全て何度も押していました。そうしたら男性が現れて、ドアをあけてくれました。
友がどうも31年前にこの店で購入したことなど、説明したようです。ただ見るだけ、友には言ったのですが、試そうよ、と言います。彼女はロングとふつうの丈の毛皮コートを持っているので、必要がないのです。
私だって冬のコートは処分中だし、31年前のミンクコートにしても、もう着る機会はないし、ダウンのコートがあればいい状態です。

でも、せっかく来たのだから、折角店を開けてくれたのだから、と試着を始めました。急に寒くなったせいか、毛皮を着て、とても落ち着きます。そして、よく似合うのです。
ジーンズという普段着でもしっくりきます。デザインが今風になったのもあるでしょう。
結局、あれだこれだで10着以上試着しました。気に入ったものがありました。黒のミンクで、ハーフ丈、スッキリと見せます。ジーンズにも違和感がありません。

さあどうする。ここが決めどころです。友が値段を聞いてくれます。ベストプライスで1300ユーロと言います。
私のために店を開けてくれ、10着以上の試着をさせて貰った、買わないと悪いような。

いろいろ考えます。毛皮でどこに行く?前のコートも持て余しているのに。迷いをみて、お店の人が1,100ユーロと下げました。買えないことはない。

その数分の逡巡、結論、考えます。



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31年ぶりの再会(2)

こうして無事に空港での再会を果たした。女性のマナーとして、お互いにちっとも変わっていない、と言うけれど、31年の年月は無視できない変化をもたらしている。

自分の変化はわかっている。しかし、友の変化を見ると、31年の大きさとその間に生じたことの重さを実感する。

私はギリシャ語はわからない。彼女は勿論日本語はわからない。英語とフランス語、どちらもいい加減な程度の力だが、それに頼らざるを得ない。

31年前、7、8歳だったむすめたちが、もうちゃんとした大人になっている。
31年前の訪問を思い出すことから始まった。共通の思いでにもかかわらず、覚えていることに違いがある。
長女がウイーンに住む次女の写真をタブレットで見せてくれる。浴衣姿で、ハープシコードを弾いている。この着物、プレゼントだよ、という。誰の?と聞くと、勿論あなたのママからよ、と言う。
そんなことがあったっけ、と記憶を辿ると、訪問後、帰国したあと、母が娘たちに浴衣を縫って送ったようなことをおもいだした。
しかし、31年もたって、子供用の浴衣をまだ、それも大人がきれるなんて、とよく見ると、帯も子供用をそのまま使っているし、帯上げもなく、ストーンとそのままに着ている。写真だからそうおかしくもないけれど、日本人が見たら、なんじゃこれは、と思うだろう。

娘たちの寸法をとったこと、その後、浴衣、彼女らにとっては着物なのだが、ちゃんと送って来たこと、それより先に、年配の外国人の言動が子供に与えたショックはとても大きかったようだ。
外国というものを意識させ、成長に合わせてその意識を広げていった、と娘たちは言う。

ウィーンに住む次女は空手もやっている、俳句も読む(日本語ではない)、というし、長女は音楽を教え、その中で、能を学んでいる、という。
驚くべきことだ。その全てに、母と私が寄与したわけでもないだろうが、端緒となったことは確かだ。

今、友と少しずつ、31年のことを話している。こうして再会を果たせたのはやっぱり神の思し召しなのだろうか?
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31 年ぶり、感激の対面

東京からドバイが10時間、ドバイからテッサロニキまでが 4時間半、乗り継ぎの時間も入れると何時間になるのやら、もうぼんやりで、危うくテッサロニキ行きの飛行機に乗り損なうという失敗もしながら、どうにかテッサロニキの空港に着いた時は、極限の疲労度だった。

ドバイまでの飛行機内がとても寒く、その冷えを残したまま、LCCらしい飛行機を降りたのは空港直接ではなく、バスで移動する、昔懐かしのスタイルだった。

乗客数は少なくて、荷物の引き取りもスムーズだった。ほっと安心した。というのも羽田でチェックインするとき、最終目的地はギリシャですね、と何度も言われる。もしかしてアテネなんかにされていると困るから、テッサロニキです、というのだが、この地名、知らない人には難しいらしい。
ラベれも確認していたのだが、ドバイで積み込まれていなjかったら、と荷物が出てくるまで不安で仕方がない。

ギリシャ第二の都市であるが、テッサロニキ空港は規模も小さく、パスポートコントロールも簡単、荷物のコントロールも受けて出る。
大勢の人がいる。さて31ねんの経年変化、お互いにわかるだろうか?

わかった!友の方から私の名前を呼びかけて来た。もうこうなると嗜みなど問題ではない。抱き合い、何度も頬へのキスをして、周囲の迷惑もなんのそのだ。
彼女はlかわっていた。猛烈に体重増加だ。31年、私以上に苦労があった。

バラの花束で迎えられた。となりに若い男性がいる。ハズバンドという。えっ離婚したと言ってたのに!
長女の夫だった。納得した。
(続く)
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2万トンのマツタケ、どこに配る?

わが隣県は、マツタケの産地として有名だ。すぐ近くの上田市は特にその名も高く、臨時のマツタケレストランも出現する。

マツタケ料理では、焼マツタケが大好きだ。貧しい実家だったが、母がなぜか、季節のものを食べさせてくれた。マツタケはなんといっても焼マツタケが一番、と言っていたのが、私にも移ったのだろう。七輪で焼いて、スダチをきゅっと絞って食べる、つばがでてくる。
なぜかマツタケごはんや土瓶蒸しというのは、あまり記憶にない。

つれあいはそんなにグルメではなかったので、秋になるとかならずマツタケ、ということもなく、家計の事情で、我が家で食卓にのせることはなかったし、上田のレストランに出かけたのも、東京から娘がきたので案内した1度きりである。

今年は夏の暑さや秋の雨で、マツタケが豊作だという。その恩恵に与れるのだろうか。

そんなことより、隣国では、気前のいい金正恩氏が、韓国大統領に2万トンのマツタケをプレゼントしたという話、韓国大統領はこの2万トン、どうするのだろう。
家族だけで消費できる量ではないことは確かだ。マツタケが冷凍できるものかどうか、そんなにたくさんもらったり、買ったりしたことがないので、わからないのだが、家族、親族、大統領府のスタッフ、警備関係者、北朝鮮へ同行したひとたち、いろいろ範囲を広げても2万トン、配り切れるものでもなかろう。

それに大統領が恣意的に配っていいものか、公的なギフトなら、それなりの処分のきまりがあるのだろう。

テレビに映っていたけれど、最高品質ともいうべきマツタケで、香りだけでもいい、1本だけでもいい、なにかの縁でここまで回ってこないものか、といやしい思いを持つ。

もし、日本との会談が秋という季節になれば、日本の首脳にも送られるのだろうか。

マツタケ、マツタケと言っているうちに、その昔、本当にずいぶん昔になるのだが、つれあいがチュニジアに駐在していたとき、伯母とチュニジア旅行をしたことがある。丁度季節でもあるし、と伯母に頼んで、国産マツタケをおみやげに持参したのだが、パリで数泊、マツタケは乾燥してしまい、またチュニジアの隣国アルジェリアでマツタケが産する、とかで、あまりいいお土産にはならなかった。

そんな思い出のほうが、よほど美しいのだが、それでも2万トンのマツタケは気になっている。

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1987年11月8日のことでした

母の遺品を調べてみた。ギリシャへ行ったときの写真があるはずだ、と。
大きく伸ばした写真がみつかった。シャンペングラスを手に、ギリシャの友人夫妻(今は離婚)と友人のお母さんが写っている。私が写っていないから、撮影したのは私だ。

やっぱり30年は経っていた。31年になるのだ。
このころは本当にのんびりというのか、あまり人をうたがったりしなかった。
飛行機の中で知り合ったギリシャ人夫妻、一度是非遊びにきて、と誘われたのを真に受けて、地方都市に住んでいる彼らの家を訪問した。

あのときの暖かいもてなしを忘れられない。小さなアパート、娘たちの部屋を私たちのためにあけてくれた。
数泊したのだが、夫婦ともに仕事を休んでのことだろう、いろんなところに案内してくれた。

帰りはテッサロニキまで送ってくれたのだが、途中、何か所か、親せき宅という家庭訪問を設定されていた。日本からのゲストがものめずらしかったのだろう。

母の人柄なのか、母と一緒の旅行をすると、こんなことがたびたびあった。それはフランスでだったり、私がすでに知っている人たちでもあったけれど、こんなに未知の人たちから家庭に招かれて、家族みたいな扱いをしてもらったのは初めてだった。

さて31年後、私が再訪する。私の母はもういない。彼女は離婚した。87年に撮ったこの写真を持参すべきかどうか、迷うところだが、もっていってみよう。
しかし、30年を経ての変化、見分けられるだろうか。

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もしブラックアウトになったなら

先日の北海道地震、震度7というのも驚きだったが、全道ブラックアウトという事態になったことに、恐怖すら覚えた。

あの東日本大震災の記憶がよみがえった。もちろん、ブラックアウトは起きなかったけれど、計画停電というのが実施されたからだ。

冬に何度かホワイトアウトというような日をみたことがある。ものすごい雪が、かたまりみたいな雪が降ってきて、視界がきかないのだ。
でもそれは常に在宅時で、外にいる時、つまりは運転中といった時ではなかったので、実際の被害にあったことはないのだが。

7年前にもなる東日本大震災、細かい記憶は失われている。日記でも見直せば、計画停電時にどうすごしたかはわかるだろうが、そこまでして思い出したくはない。

結局、東京あたりではあまり実施されなかったようだが、わが村では何度も実施された。
昼ならいい。薄明りでもものは見える。しかし、夜の時間帯になると、夜中ならともかく、夕方から夜にかけて、ともなると、何もできないことになる。

あのとき3月だったから、極寒ということもなかったが、まだマイナス10度になるような寒い時期だった。
暖は、電気を使わない灯油ストーブ一つですませた。いっぱい着込んで、ストーブをつれあいと二人、抱き込むようにして暖をとったものだ。

まだ電気の通る時間帯があったから凌げたけれど、これでブラックアウトという事態になったとき、そして1、2月という最も寒い時期であれば、凍死という事態もありうる。

関東全域とか、群馬県だけとか、それだけでも住んでいる人間にとっては大変なことだ。

ラジオ、それも電池で使えるものを用意しろ、といわれるから、以前、そんなラジオを買ったことがある。しかし、山の中で電波がよく通らず、使用に値しなかった。
いろんな情報はでてくるけれど、土地の特殊性というのもある。

なすすべなく、というような状態を覚悟している。
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28,1%の一人です

65歳以上の高齢者が総人口に占める割合(高齢化率)は28,1%、3557万人もいるのだそうだ。世界1の高齢化率なのだという。

同じく高齢者となった同年代の友人たちと、常々、年よりと呼ばれるようになるとは、その昔、思いもしなかったわね、と言い合っている。
いつしか、なにかの会合で、最年長であることも珍しくなくなった。

しかし、一つだけ一番若い、といわれることがある。それは現在住んでいる別荘地のご近所でのことだ。つつじ通りという名称があるのだが、ある家のお孫さんたちが年寄通りに改名したら?というほど高齢化が進んだ。
それでも、全員が等しく高齢化、一番若手だった私は、相変わらず最も若い存在であり続けている。
最長老は93歳、この高齢者集団から抜ける人はいる。例えばわがつれあいのように。だから人口減少もしているのだが、完全な限界通りになってしまっている。

しかし、日本の最高齢が女性115歳、男性113歳ともなると、人間、長生きできるものだなと感嘆している。100歳以上は69,785人もいて、88%が女性なのだとか。
気が遠くなりそうだ。

友人が電話してきた。がんばって100歳まで生きようね、という。いやです、と即答した。
総理大臣からの銀杯をもらえるのよ、となんでも集めることが好きな友人は言う。こちらは終活中、銀杯なんてもらってどうするの?それより金一封のほうがよほどいいのに。それに今、銀杯ってことは、我々が100歳のときは銅杯、あるいはアルミ杯かもよ、というと、その可能性大だ、と納得している。

作家のなんとかさんではないが、年取って、何がめでたい、という心境の祭日であった。
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安室フィーバー、のれない年代

今回の安室奈美恵引退をめぐるメディアもあげてのフィーバーぶり、もう驚嘆あるのみだ。
昨日が沖縄でのラストコンサートというのが、朝から情報番組で取り上げていたけれど、入場券を入手した人のみならず、チケットを持たないひとも、会場から音漏れがありはしないか、と沖縄にきているのだ。

その数、詳しくは知らないが、平和な国なのだな、とつくづく思う。それに豊かになったものだと。

私がこれらのファンの年齢だったら、とても沖縄まで、いくらラストといっても公演に出かける金銭的余裕はない。お金はあっても、勿体なくて、出かける気にはならないだろう。

総勢何人が沖縄まで足をのばしたのか、わからないけれど、泊まるところはあったのだろうか、ババは心配している。

今朝は今朝でびっくり仰天だ。朝日新聞をみていると、15ページ目に、安室奈美恵さま、とあって、ファン一同からのメッセージが載っている。それだけではない。16、17、18ページはこの広告に寄せたファンの名前がびっしり記載されている。


引退した歌手はほかにもいるが、こんなに派手な扱いを受けている歌手というのは初めてではないだろうか。

新聞というのは広告収入も大きいから、依頼があれば、この種の広告、特に何の害にもならないのだし、掲載するのは当然かもしれないが、新聞は公器である、という意識をもっている人間にとっては、仰天するのだ。

歌手として、派手な引退としては、山口百恵、キャンディーズ、名前がでてこない、UFOなどを唄った二人の歌手、などを思い出すけれど、1年もかけての引退コンサート、それにこれだけのファンの追慕は初めてのような気がする。

よほど感性が衰えたのか、ほかの歌手たちの歌はそれなりに口ずさむことができるのだが、安室奈美恵の歌は1曲も歌えない。

声もダンスも衰えをみせていなさそうなのに、なぜ引退するのか。
ミステリアスなこともまた魅力なのだろう。



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