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後家の頑張りはもういいよ

今週は熱中症でスタートした。台風一過とはいかない、湿度が80%以上ある中で、台風の後片付けをしたのだが、それがいけなかった。

この台風、私の住んでいる地方を直撃もしなかったのに、風と雨、どちらも強くて、後遺症が残った。倒木はなかったが、木の枝、葉っぱが散乱している。また花なども倒れて、支柱をたてるか、切り取ってしまうかしなければならない。

毎日の庭仕事もある。少しがんばりすぎたのだ。
月曜日、火曜日と気分がわるく、ベッドから起きはするけれど、ほとんどソファーにぐったりなっていた。
それを訴えた友人の一言である。「後家のがんばり、もういいよ」

この言葉、よくふるさとでは耳にしていたけれど、どんな意味があるのだろう。正確には知らない。肯定的なのか、否定的なのか。後家というのは夫を亡くした妻のこと、これはあてはまる。
つれあいと共同作業でしていた庭仕事、二人と一人の仕事量の差や、年齢的に長くはできなくなって、とても彼が生きていたときとは違っている。

それでも、頑張ってきた。庭仕事が好きだというのもあるのだが、だれに褒められることもないのに、ひたすら、1日のうちのいくらかの時間は庭仕事に割いてきたのだ。

がんばったとして何になる、熱中症で寝込むのがせいぜいだ、それより、お気楽にしてなさいよ、というのが友人の真意なのだろう。

小さいとき、同居していた叔母がこのことばをよく口にしてたのを覚えている。決してほめては居なかった。当時は、戦争未亡人なる人も多かったけれど、そういう人たちが死に物狂いでくらしているのを、あの人は後家の頑張りだから、とか少し揶揄していたような口調だった。
それが私にはちょっと不快感を覚えさせた。叔母自体、戦病者として帰国した夫がいたのだが、離婚して実家、つまりは私の父の家に戻ってきていたのだ。正確には後家ではないが、シングルマザーとして、がんばりを見せる必要があるのに、同病相憐れむではなく、皮肉っぽい言い方をしていたのだ。

私にはがんばらなければならない理由はない。それなのに、がむしゃらに頑張るようなところをみせるのは、意地なのだろう。だれに対しての意地か。亡きつれあいに対しての意地でしかない。

そんな何の役にもたたない意地でのがんばりは不必要、と友人が忠告してくれたのだ。

自分でやり遂げようと思っていた南と北の庭の草刈、とうとう管理事務所に依頼した。
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