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水澤観世音へ

今日は思いがけなく、東京の友人が訪問してくれた。日帰りの訪問であれば、往復のほうが時間がかかるから、こういう訪問は少ない。

地道を使ってくるという。この地道という言葉、耳慣れないけれど、この頃よく目にする。友人は「平たく言えば」とか「ざっくり」とか、新しい言葉をよく使う。この地道も新しい言葉なのであろう。いわゆる高速道路、あるいは有料道路と比較しての、一般道ということなのだ。広辞苑によると、1)ふつうの速度で進むこと、馬を普通の速度で進ませること、2)手堅く着実な態度、まじめなこと。じみ
などと書かれており、一般道路という表現はない。

まあ、下を通って、少し余計な時間を使い、民情視察をしながら来てくれた。折角だからどこかへいきましょうよ、ということになる。昼ご飯、私はすませていたが、友人はまだだ。水澤うどんでもたべませんか、というので、出かけることに。

昼はすませたから、うどん、食べられるかしら、といいながら、そこには水澤観世音もあることだし、と何かわからないけれど出発する。

水澤ってどの辺?と聞くと、沼田の辺、という返事。以前、伊香保温泉の近くで水澤という地名もみかけたけれど、違うところにあるのかしら?と住んで10年以上たつのに、ちっとも群馬通になれない私は、友人まかせだ。

水澤観世音は、やっぱり伊香保の近くだった。
坂東16番札所、五徳山、天台宗で、東京へ36里、日光へ36里、善行寺へ36里という枢要なる霊場、なのだそうだ。

七難即滅七福即生のご利益があるのだそうだ。友人はありがたくお参りしている。御朱印もいただいている。

そんなにありがたいところが群馬県にあるとは知らなかった。

七難ほどはないけれど、難の一つか二つを滅していただけるかも、と祈願して、帰途は水澤うどんをいただいた。
福岡県の軟うどんに慣れている身には、ちょっと違ううどんだった。

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エルサレムは今も昔も混沌

先日、アメリカの大使館をテルアビブからエルサレムへ移転したことで、大騒動が起きたというニュースが続いた。

テレビの映像に出てくる場所のほとんどはしらない。もう40年ほど前に一度訪れただけの場所、そんなに記憶力もないし、観光スポットくらいしか思い出せない。

しかし、旧市街の人の多さ、その人たちの雰囲気の雑多さ、日本の整然とした、単一民族といえばまた語弊があるけれど、似通った人が集まった場所に生活していた身には、混沌としか表現のしようのない場所だった。

感覚もピリピリしていたことを思い出す。黒い服装のユダヤ教徒、やっぱり黒一色の東方教会の人たち、キリスト教徒は服装に特別なことはなかったけれど、パレスチナの人たちとは違っていた。

旧市街のなかは、人口密度が大変なもので、ゴルゴダの丘までの道の両側にはお土産屋さんもひしめいているし、ぶっつからないで歩けることはできなかった。

嘆きの壁のところで祈りをささげるユダヤ教徒の写真をとろうとして、激しく叱られたことも思い出す。女性からだったけれど、体をぶっつけるようにして怒られた。

それに比べて、壁の上にあるモスクに人のいなかったこと、作法にしたがって、足をあらって入ったけれど、人はいないし、来てはいけないところだったか、と思ったものだ。

旧市街、それもモスレムの勢力圏のなかにある、女子修道院に泊まり、朝はモスクからのお祈りの歌、そして早朝のミサの鐘の音、音すらも混沌だった。

危うい均衡のなかのエルサレム、過激な変化は好ましくない、けれど、あえてトランプ大統領はそれを行った。

2000年以上前の歴史を体感できる稀有な場所の一つ、もう一度訪問したいけれど、この混沌がこわくて、行くことができないでいる。毎年、巡礼の場所に考えているのだが。
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親しい人がまた亡くなって

昨夜、マルセイユからのメイルを受け取った。私の受洗のための、聖書研究を手伝ってくださったご夫妻のご主人の方が亡くなられたのだ。

去年だったか、88歳のお祝いを、日本風かしらと言いながら祝われたから、年齢的には、と言いながら、年齢ではない、神様のおぼしめしなのだ、と思う。

その方は、もと眼科医、もう仕事をやめられたころにお知り合いになったので、現役時代は存じ上げないのだが、とても穏やかで、真面目で、きっといいお医者様であったのだろうと思っていた。

受洗の時以来、もう親戚みたいなお付き合いになって、私がフランスに行き、そのたびにマルセイユへと訪れると、必ず、彼らの家に泊めてもらった。

夫人のほうは、より活発な方で、どちらかというと、夫唱婦随は婦唱夫随の家庭だった。
ステンドグラスが趣味で、頼まれると、教会の壊れたステンドグラスの修復をしたり、新しいステンドグラスを作って寄贈したり、それをひらけかすことなく、地味な方だった。

交通事故にあって、片腕を負傷、それ以来、不自由な動きになり、体のあちこちに故障がでてきた。

何かの病気で入院し、退院後は自宅に戻らず、自分から療養施設(老健みたいな)に入所、でも家からも教会からも近いところで、夫人は毎日のように、そして日曜日は食事もともにするという生活だった。

この2,3年、マルセイユまで足をのばさなかったため、お会いできないままだった。それが残念でならない。

こうして人との別れは訪れる。もし、会いたいと思う人がいれば、会っておかねばならない。
遠いから、費用がかかるから、いろいろ克服しなければならない条件はあるけれど、会いたいと思うなら、それは今でしょ!なのだ。

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