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終わりなき花粉の苦しみ

都会住まいの人たちは、もう花粉で苦しむ季節は終わったようだ。テレビの天気予報でも、花粉情報はでない。

ところが、この山の中は相変わらずの状態だ。最悪といえるかもしれない。何の花粉で苦しんでいるのか、きちんと分析していないので、確たるものではないのだが、主たる原因は、たんぽぽと蕗のように思える。どちらも綿毛が飛び始めている。その前に花がさいているとき花粉が、そして今は綿毛がふわふわと飛んでいる。
これらがアレルギーの原因になるとは、夢にも思わなかった。

この2つのほかに、新緑の季節、若葉が出るのは大変にうれしいのだが、なにかと余分のものがでているように思われる。

家にいても、緑のそよ風をいれられない。洗濯物を外干しすると、そのあとが大変だ。
これが花粉のせいとは知らない間、なぜ、日中のほか、夜にも、寝る時にくしゃみや鼻ぐしゅぐしゅ、目のかゆみ、痛みがでるのか、わけがわからなかった。花粉症のひどい友人が教えてくれるまでは。シーツなどを外干ししたせいだと。

ここに移り住んだときは、寒いところで、花粉の害もないし、いいわよ、と東京で花粉症に苦しむ友人に自慢していた。ところが、これは年齢のせいなのだろう。だんだん、スギ花粉から、すべての花粉に反応するようになったのだ。

そろそろ、たんぽぽもフキノトウの綿毛も終わってくれるだろう。そこまで待って、次の悩みは虫となるのだ。田舎暮らしも悩みは尽きない。


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クールジャパン、「竹」の魅力

日曜日夕方6時、BS1で放送されるクールジャパンという番組が好きだ。外国人が日本の魅力を語ってくれる。
クールというのがかっこいい、という意味であることを知ったのも、この番組によってだった。

もう相当回、放送されているのだが、この日曜日は「竹の魅力」だった。
タケノコ料理、竹細工、尺八、竹を建設材料として使う、といったことに、外国人はすっかり感心している。

タケノコ尽くしという料理の仕方には、特にタイの女性が感心しきっていた。
掘りたてのタケノコをナマで刺身と称して食べる。そのまま焼いて、皮をむいて焼きタケノコで、天ぷら、フライ、煮つけ、たけのこご飯、お吸い物、ヴァラエティは豊だ。

タイでは料理に使うけれど、1種類か2種類くらいで、こんなにヴァラエティはないし、日本のタケノコほどおいしくない、と言っていた。

外国ではこのように竹を利用するところがない、という。

そして竹とバンブーという呼び方で、印象だけでなく、その種類の違いを解説していた。

そのとき、アフリカでの経験を思い出した。アフリカにも竹があることを知って、たとえば、別府などでみられる竹細工の技術を導入できないか、あるいはタケノコを食べることはできないか、と、アフリカのためになにかできることを探していた私は考えた。

実行力もなかったが、竹の種類の違いに気がまわらなかった。日本の猛宗竹のように太いものはなく、細い茎の竹が数十本かたまって生える。いわゆるバンブーなのだ。
細工に使えなさそうだったので、新芽というか、土から芽がでたところでほりあげ、ゆがいてみたが、柔らかくならない。1時間もゆでてみて、歯が立たない固さのままであったこと、かじってみて苦くてとても食べられなかったこと、これだけで、バンブーあれど利用されていない事情も理解できた。

アフリカの人のみならず、ヨーロッパからきた、特に宗教関係者は、なにか土地のもので食べられるものがないか、きっと試したにちがいない、それでも食べていないというのは、食べられないからだ、とようやくわかった。

クールジャパンでは、アフリカの人がいなくて、そんなことを説明した人はいなかった。竹も日本の竹ばかりではない、と言いたかった。
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本年度ガーデニング計画の挫折

今年は庭仕事に着手するのが早かった。3月にはけっこう暖かい日があって、雪もなくなっていたとき、土はまだ凍っていたけれど、落ち葉かきくらいはできた。

そしてもう5月、まわりはすっかり新緑というより、若葉の緑もだんだん濃くなってきた。GWを過ぎると、農作業も本格化する。

我が家の庭は、クロッカス、フクジュソウ、ヒヤシンス、水仙と咲いて、地表のものから、少しかさの高いものに目がいくようになった。真っ白のユキヤナギ、そしてその横には実の一つだにできないヤマブキの黄色、と咲いていく。

そして問題はブルーベリーである。気温が高いせいか、ほかの植物は、早生というのか、例年より早く芽が出たりしている。スズランなどもその例だ。
ところが、ブルーベリーはなかなか芽がでてこない。これだけ、季節を守っているのか、とほかのところと比較できないので、すこしやきもきしていた。

数日前にすぐ近くの、夏場にはブルーベリー園を開くおうちの方がみえた。早速、そこのブルーベリーの状態をみせていただく。「いや、寒さにやられて、だいぶ枯れています」ということ。枯れた枝は惜しげもなく切っているとのこと。枯れた枝は切って、来年に再生するのを期待するという。

そうなんだ、寒さで枯れてしまっていたのだ。この冬は、ものすごく寒かった、と皆さんおっしゃるが、私は12月から1月の、その一番寒かったという期間を、パリで過ごしたために、この冬がそんなに寒かったとは思わなかったのだ。

我が家のブルーベリー、枝のほとんどが赤茶になって、去年の葉っぱがついたままである。
メインのものは古木みたいになっている。

今年の新芽がでているものもあるが、ほんの少し、花がついていていいはずだが、花もない。

体から力が抜けていく。自産自消が自慢だったのに、野菜作りをやめ、せめてブルーベリーのジャムだけでも、とがんばってきたのに、がっくりきた。

昨年の晩秋、つれあいがしていたように、ピートモスを施肥し、地面の防寒のために稲わらを敷き、それなりの準備はしたつもりだった。結局、例外的な寒さのせいなのだが。

ブルーベリーの隣の薔薇の木々も枯れている。昨年の今頃は、アーチになるほどの薔薇の花の数だったのだが。

ブルーベリーもバラも、亡くなったつれあいの担当だった。だから、というわけではないが、どういうふうにしていたのか、よく覚えていない。
何事も適当、適当、としていたのが、こうなると適当ではすまない。

今年はあきらめた。しかし、来年、どうなるのだろう。古木のものはもう植え替えしなければならないのかもしれない。しかし、植え替えは大変な作業だ。

南と北、500平米を超える面積の庭を、一人でどうにかしようというのは、もう無理なのかもしれない。

切り落とした枝を片付けながら、これはつれあいが生きていても無理なことなのだ、と自分に言い聞かせていた。
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総理と首相、どう違う?

昨日は柳瀬元首相秘書官の国会での答弁の仔細を分析することで忙しかった。別に自分で分析するのではないが、各放送局の報道番組を見比べていたのだ。

その中で、彼が愛媛県の文書にある「首相案件」という言葉に対し、自分はあまり、というかほとんど首相という言葉を使わないので、違和感を覚える、自分の発言ではない、といった旨の発言をしていた。

首相と言わないのであれば、なんというのか、という説明はなかったが、きっと総理といっていたのだろう、というのが識者の受け止めであった。

総理 :内閣総理大臣の略称
首相 :首たる宰相、内閣総理大臣の通称

いづれも広辞苑の説明だ。どちらが丁寧なのだろう。略称と通称、どっちが偉そうという区別は私にはできない。
翻訳の場合、総理と首相は区別するのだろうか。英語だとprime minister、フランス語だとpremier ministreとなるが、総理と首相の区別する表現があるかどうか、浅学にして知らない。

麻生財務大臣は、副総理とは呼ばれるけれど、副首相とは呼ばれない。これはなにか意味があるのだろうか。

柳瀬元秘書官、この元というのも日本的だ。直前だと前となり、2代前から前は元と呼ぶ。
前秘書官だっただろうか。

官邸の敷居がこんなに低いものとは、だれもが考えていなかったに違いないが、安倍首相のバーベキューも結構、間口が広いようだ。加計学園長のほか、事務局の人もその場にいたというが、この人が後日、秘書官室を訪ねてきた人なのだろうか。
首相のプライベイトなバーベキューに、加計氏が招かれるのは長年の友人というから納得だが、その部下まで連れてくるというのは、まるっきりプライベイトではない雰囲気になってしまう。

それにしても、おります、というべきところが、すべて「ございます」となっている答弁、たとえば、「説明してございます」「承知してございます」、耳障りだったが、これが高級官僚の言い方とすれば、わかりましてございます、となるのか。

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フランスのゴールデンウィーク

今週はフランスのGWである。といっても3連休とか4連休というわけではない。火曜日の8日は第二次世界大戦勝利の日、そして10日木曜日はAscensionキリスト昇天祭と、国の祝祭日が2日あるのだ。

5月8日は日にちが決まった祝日、そしてキリスト昇天祭は移動祝日で、曜日が木曜日と決まっている。

これが火曜日と木曜日であることが今回のGWへのかぎとなっている。
フランスでは祝祭日が火曜日だったり木曜日であったりすると、週末につなげて橋をかける、という制度がある。これは国が決めたものではなく、職場での自発的な制度らしい。
つまり、間の月曜日や金曜日を休みにしてしまうのだ。今回は火曜日と木曜日だから、ついでに間の水曜日も休み、としている職場、あるいは人が続出、結局1週間全部、前後の週末をいれて9連続の休みにした人も多いのだとか。

フランスは有給休暇5週間、それに祝祭日(これは日本より少ない)、ばっちり休むのだから、その上、橋をかけることもあるまい、と思うのだが、それはそれで休みは多いほうがいい、というわけだ。

これは有給だったり、無給だったり、制度自体が自発的なものだから、労働法にあるわけではないようだ。

5月はそれに加えて、聖霊降臨祭およびその翌日の月曜日が加わることも多いから、ただでさえ、ゴールデンウィークならぬ、ゴールデンマンスというのか、月自体が休みだらけということがありうる。

しかし、少し休みすぎを冷やす事実もある。聖霊降臨祭の月曜日を、無償で働くという制度もでてきたのだ。これは何年のことだったか、酷暑の夏におきた高齢者の死亡件数の多さから、反省もあって、この日の休日を返上することになったような記憶がある。

フランスではエールフランス、そしてSNCF(フランス国鉄)のストライキがまだ続いている。いつになったら解決するのか、泥沼状態から抜け出せないでいる。
休日が多くても、国が混乱していたら、楽しいことはない。
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「内密出産」(赤ちゃんポストの課題)

今朝の朝日新聞に、熊本の慈恵病院が、「内密出産」の仕組みの素案を熊本市に示した、という記事があった。
「内密出産」というのは、予期せぬ妊娠をした母親が匿名で出産し、子どもは後で出自を知ることができるという仕組みのこと、という。
出自情報は自動相談所が管理し、子どもが18歳以上になれば閲覧できるとした、という。

まだ素案の段階であるということは、法整備がされていないことでもある。「内密出産」、「秘密出産」「孤立出産」「匿名出産」いろんな言葉があるけれど、要は、母親が出産の事実を秘密にしたい、子どもとの関係を断ちたいということだ。

フランスではaccouchement Xという制度が戦後あたりから存在する。匿名での出産であるが、近年、子どもはその出自を知る権利が認められ、出産時の情報に接することができるようになっている。

この素案の仕組みは、病院が匿名での相談と出産に対応、一方児童相談所は母親と面談し、母親の実名や住所といった出自の情報を保管する。子どもが18歳以上になれば、子どもの請求に基づき閲覧を可能にする。母親が閲覧を拒否する場合は、家庭裁判所に判断をゆだねる、というものだという。

まだ地方の一病院が提出した素案であるし、国の法律として出てきたものではない。

この問題も、いつも矛盾だらけだと思う。病院はカトリック、あるいは病院という立場から、一人で出産することの危険性や、子どもの安全を担保するためにも、内密出産をさせてやりたい、しかし、子どもの権利からいえば、出自を知りたいと思うときはくる。母親はそれを隠したい、
難しいことだ。

パリの両親は、2人の養子をもらったけれど、2人ともこの匿名出産による赤ちゃんであった。実子ではないことを、小学生のころには打ち明けたという。子供たちもその後、自分たちの実母を探すことをしたけれど、実母をみつけることはできなかったらしい。

捨てられた子という意識が、養父母へと向かい、親子関係は難しかったということだ。
こういうとき、なぜ、母親だけが責められるのだろう。父親との関係が断たれてしまっているから、母親は匿名出産を選ばざるをえなくなっている。

日本での実例を身近に知らないが、フランスの両親宅で、親子関係の複雑さを目の当たりにしているから、この内密出産、常に気にかかる。
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銀行も昼休み

わが村にある地方銀行の支店から、「大切なお知らせです」が届いた。口座はもっている。もしかしたら、特別な利率を適用します、というのかな?と期待して開封した。

窓口営業時間変更のお知らせだった。6月のある日から、営業時間を変更する、つまり午前は9時から12時まで、午後は13時から15時までとする、というのだ。昼の12時から午後1時の1時間は店を閉じて、窓口業務はないという。

大英断なのだろう。これまで、銀行は朝の9時から午後3時までは開店しているもの、という観念が染みついている。もちろん、ATMという昔なかったサービスは徐々に時間が拡大して、夜は20時まで使える。

でもフランスのように、24時間使えるATMを経験していると、それがどうした、と言いたいのだが、窓口は、フランスなどより、とても使い勝手がいい。といってもフランスで窓口をつかったのは、口座開設のときに行ったきりだけど。

理由は書いていない。この支店だけの営業時間変更なのだろうか。
これまでの常識を変えることである。まあ、あまり利用していないからいいけれど、と納得する。

行員の労働環境をよくするためなのだろうか。閉鎖にむけての準備なのか、うがった見方もできる。
働き方改革の一つなのかも。村が先端をきっているのかも。事情をきいても、返事をもらえないかもしれないが、次回、窓口できいてみよう。
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考と妣(ちちとはは)

日曜日の新聞には朝日歌壇と俳壇が載っている。これをゆっくり読んでいくのは、日曜日の楽しみの一つだ。

左右に短歌と俳句が選者によって並んでいるのだが、真ん中に歌と俳句の選者が交代で短評を寄せている。それも現在の傾向を知る上で、とても参考になる。

今日は考と妣、という言葉があった。ちちとははと読むらしい。初耳というのか初見のことばだった。
広辞苑には載っているという。確認すると、考のところに、すでに亡くなった父(の称)とあり、矢印がついて、妣の字が載っている。この漢字をみると、すでに亡くなった母の称となっているわけだ。

亡父、あるいは亡くなった父、母も同様だけれど、というかわりにこの考と妣を使うのが昨今の流行になっているというのだ。今日の選句の中にはなかったけれど、そう指摘されるから、きっとそんな句が目立ってきたのだろう。

今井 聖というこの評を書いた方は、「むしろこういう読ませ方をさせる「蘊蓄」が俳句独特の抹香臭さを敢えて演出しているようで違和感が残る」と使う人たちに対して、否定的のようだ。

しかし、書きたくなる人の気持ちもわかるような気がする。今や、携帯用語のような言葉ができているし、それらはある程度の年齢から上ではちんぷんかんぷんだ。
それに、ことばの使い方も変わってきた。ペットに敬語を使う時代である。ペットが死ぬと、亡くなった、とか、天国へ召されました、などと言われてえっと思うことがしばしばだ。エサもやる、ではなくあげる、となっている。

そんな時代に、少し、古い表現をつかって、意味付けしたい、という気持ちにもなるだろう。

それにしても、このちちとはは、は初めて見た。まだまだ漢字検定を受けられそうにない。
亡夫については、なにかあるのだろうか。

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ドナーカード未登録

昨夜、12時すぎまで本を読んでいた。「移植医」という本だ。

移植について考えされられた。この問題は昔から関心があって、ずっと考えてきたことだ。
ただ、昔と今では考えが変わっている。

まだ臓器移植が脳死者から認められていないころ、まだ運転免許証に移植の項目がないころだと思うが、まずアイバンクに登録していた。これは角膜を移植してもよい、ということだけだったと思う。次に、腎臓について、何かの形をとったような記憶がある。
友人の一人が、腎臓が悪くなり、透析をしていた。仕事をやめ、京都の病院で透析をうけていた。

献血はずいぶん回数をしたためか、日赤からの感謝の品ももらったことがある。しかし、骨髄移植の登録はしなかった。

外国の機関で働いているときには、その国の移植関連、医師の倫理の問題、などを調べていたこともある。

ところが、だんだんに臓器移植について、保守的というのか、否定的な考えになってきた。
生体肝移植などが行われると、健康体の人の体にメスをいれる、ということが納得できなかった。

年齢もあって、免許証のドナーカードの部分には何も印をつけない。お役にたてそうにないからだ。

「移植医」では、アメリカでの考え方が非常に強烈に書かれている。脳死者からの移植である。
心臓、肝臓、肺、角膜、腎臓、と使える臓器はすべて移植のために摘出されるらしい。

フランスの親戚の一人、私は知らない人だったが、40代の男性が病気か事故で急死したとき、本人の遺志だったのか、すべて使える臓器は移植のために、と遺言をしていたらしい。

とても勇敢だ、と従妹などが称賛していた。父の火葬にはあんなに拒否の様子をみせていたのに、臓器を提供することについては拒否反応がなかった。

輸血までは否定しないけれど、臓器移植まで治療といえるのか、というのが今の考えなのだが。

もう年齢で献血も拒否されるけれど、臓器の寄付はできるのだろうか。自分の考えとは別に、どうせ散骨、それもどこかの海に、と形が残らないことを希望しているのだから、ドナーカードにサインをしておくか、と考えてしまった。



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TOKIO, who?

この数日来、TOKIOという言葉がメディアに頻繁に登場している。山口メンバーという言葉もそうだ。

私はこのTOKIOというのがジャニーズ事務所の所属しているグループ名であることを知らなかった。
モーニング娘以来、なんだか集団で、同じような男や女が、本当に声をだしているのかわからないような歌を歌い、踊っているのをロボットみたいと思いながらみている。

NHKすらも山口メンバーという呼び方をしていたが、このメンバーというのは尊称なのだろうか、いや、強制わいせつなる罪をおかした人間を呼ぶのだから尊称ではあるまい、なら卑称なのか、そうでもないらしい。

メンバーというからには何かの団体に所属していて、その団体所属者はメンバーとよぶことが世間一般の常識となっているのか、私はそんな常識はない。

この数日の報道番組の面白くないこと、当人のお詫び会見、そして昨日からはTOKIOの他の4人の合同会見、それを繰り返し、流すのだ。

これなら、モリカケ報道を繰り返し聞いていたほうが、よほど面白い。

強制わいせつに連帯責任はあるのだろうか。もしかしたら、この4人、その場にいたとか、などとかんぐってしまう。

飲酒運転、強制わいせつ、セクシアル・ハラスメント、麻薬、これらについては、情状酌量などない、と割り切って考えるのは、世間ずれした年よりの断罪しすぎなのだろうか。

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