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ノートルダムのdame(夫人)から手紙が届く

パリの知人のなかに、ノートルダム寺院のすぐ隣に住んでいる女性がいる。
もう80代の年金生活者、現役時代は薬剤師だったという、気さくで話好きな女性だ。

4月にノートルダム寺院が火災になったとき、すぐに無事でいるのか電話をした。
そこで、電話に出たのはpompier消防士だった。この家の住人はだれもいない、避難した、という。

どういう状態で避難したのか、家は煙はガスははいっていないか、いろいろ心配だったけれど、あいにく携帯の電話番号をもらっていなかったので、その後の連絡はとれなかった。

いつ自宅に戻れるのか、こちらからは調べようがない。
お見舞いの手紙を出した。お返事がなくても、どこにどうしていらっしゃるか、わからないのでそのままにしていた。

7月1日付でお礼状が届いた。
そこに当日の状況が記されていた。

何時なのかはわからないが、台所で夕食の支度をしていたら、同居している息子がきて、"Maman, Notre-Dame brule"(ママ、ノートルダムが燃えている)と言ったそうだ。そして彼女は息子が冗談を言っていると思ったという。
彼女の部屋がノートルダムに面していて、その部屋に行ってみると、まさしく、炎に囲まれていたという。

あわてて消防に電話したら、もう彼らは現場にいたとか。
金属製の鎧戸を閉めて、地上階まで降りて行った。そこには管理人がいた。彼に、一緒にいらっしゃい、レストランに避難しましょう”と言った。
市庁舎近くのレストランにいって、テレビを見た。だからすべての情景を見ていた。なんというか、とても印象的だった。

 ボン・マルシェ(左岸のデパート)近くに住んでいる兄から電話があり、そこに避難するようにとのことで、そちらに行って、結局4日すごした。
私たちが自宅を離れてのち、消防士が建物を訪れ、各戸に避難するように告げてまわった。

どの家もドアはかぎがかかっているので、彼らはすべての部屋の鍵を壊して、だれも残っていないことを確認してまわった。(私が電話したとき、消防士が出たのだが、丁度そこにいたらしい)
4日後に家に戻った時、鍵がこわされているのは不快そのものだった。現状復帰するのに2か月かかった。


ということだ。
毎日、ノートルダム寺院の哀れな姿を見ざるを得ないというのは、つらいことだろう。
何年かかるのやら、しかし、それはまた再生の工事でもある。
もう一度、Bon courage!(がんばって)とお手紙しよう。


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