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ミャンマー、何を知っているというの?

先日、ミャンマーではお坊さんが多すぎる、身の程知らずの寄進をするなら、産業投資にまわせ、みたいな記事を書いた。
大いに反省している。何を威張ってこんなことを書いたのだろう。

今、「ビルマの竪琴」関連の本を読んでいる。
水島上等兵のモデルといわれる?人の著作などを読んでいるところだ。
中村さんと言われるその方は、ビルマに出征し、生き延び、1946年に復員された。日本では曹洞宗のお坊さんでもあり、ビルマにいた時代を、エッセイや物語として発表されている。

それを読んでいて、今と全然変わりがないことに気づく。お坊さんの数が多い事、ミャンマーの人々、当時はビルマと呼ばれていたわけだが、の信仰深いこと、寄進に全く惜しむということがないこと、お坊さんへの尊敬の念、あるいはブッダをあがめる気持ちの純粋さ、などが書かれている。

中村氏によると、ミャンマーの人々は、生涯の収入の80%を寄進に使うという。ものすごいことだ。

ユダヤ教徒が収入の10分の1を神にささげる、ということですら、ユダヤ人の時には悲劇的な運命を考えると、驚きなのだが、ミャンマー人はそれを大きく引き離している。

クリスチャンを考えると、フランスで代父などは、教会の献金、慈善団体への寄付、なにかと出してはいたが、応分の金額だと言っていた。

ミャンマーの場合、お坊さんの方から寄進を促されるわけではないだろう。毎日の托鉢にしても、ごはんやおかず、おやつ、など托鉢の鉢にいれるときの、ミャンマー人の表情は、義務を実行しているのではなく、お坊さんへの尊敬の念をこめての寄進だということがわかる。

だれからいれた知識なのやら、日本は大乗仏教、東南アジアは小乗仏教、大の字のついた方がえらい、小乗仏教は、教義が狭い、自分本位だ、などと思っていた。
なんの、その小乗仏教は、ずっと生き続けている。

中村氏が書かれたビルマの姿は、70年以上前のことだ。今でも変わらない、というのは、それだけの価値をミャンマーの人々が認めているからなのだろう。
70年だけではない。この信仰はずっと続いてきている。

その信仰を、現代に即さないと、外野から簡単に言うことではない。



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