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水害体験の共有

今回の水害の被害、広範囲であることと、その深刻さに驚いている。西日本と地域を広域にされたことも、むべなるかな、と思う。

先日、3歳年長の姉が訪れた、河川の氾濫や土砂災害の最中のことであったか、テレビでの報道を見ながら、二人して1958年の故郷での水害を思い出していた。

わが実家は、1958年6月26日、筑後川の堤防決壊による洪水で浸水被害にあった。このときは、長雨の梅雨の真っ最中で、だんだんに流量が増える川がいつ決壊するか、というのが話題にはなっていたが、実際に決壊するのか、決壊する箇所がどこなのか、もし決壊しても、途中にある坂をこえて我が家にまでくることはなかろう、と大人は思っていたきらいがある。

26日が何曜日なのか、学校があったのかどうか、覚えてはいないが、川が決壊しそうだというので、様子を見に行った。今ではそうしてはいけない、というのがわかっているけれど、その当時は好奇心や、そこまでの警戒心がなかったのだ。

途中で、決壊したから先にはいけない、という話で、引き返したけれど、それを大人に伝えたけれど、大人もフーン、というくらいで、反応しなかった。

ところが、あるときから、道路と家のあいだにある溝から、水があふれだした。これはあれあれという間に、家の中まではいってきた。
それから大人のしたこと、タンスの上にいろんなものをあげていた。あとになって、タンスは浮いて、倒れることを知るのだが。

我が家には近所にあった材木屋の大きな材木が流れてぶつかってきた。家が倒壊するかも、と隣家に避難した。
結局、家は倒壊を免れたけれど、1階の鴨居の上まで水につかった。

今も西日本大災害の被害者の方々が後片付けをしている光景を見て、フラッシュバックするけれど、泥が残って、それは大変だ。我が家の場合、泥だけで、土石というのがなかっただけでも楽だったのかも、と姉と話した。

まだまだ、行政サービスも今ほどのことはなく、ヴォランチアなどいない時代、男といえば父、それに3歳の弟だけという家族構成であったが、どういうふうに片付けを進めていったのだろう。

災害を免れた親戚の人たちが手伝いにきてくれたことは覚えている。それに大阪から就職したばかりの長兄がはるばる帰宅してくれたことも。

避難所があったのかどうか、食事や寝る場所はどうしていたのか、もう記憶にはない。

今回の被害を受けた家屋をみていると、立派な家が多い。建てたばかりという方もいる。泥だけではない、なんとかストーンという巨大な石にどっしり居座られた家もある。

わが故郷の近くでは、2年前の朝倉の水害がある。まだまだその被害からの回復もしていないというのに、再度の水被害だ。

58年の水害も、50年に1度といわれた大水害だった。それからもう60年たっているけれど、この種の異常な降雨や、あるいは台風による大雨といった被害は、毎年ありそうな気配だ。

人口減少、高齢化、少子化、これまでと違った要素のなかで、気候の変化も全く違った意識でとらえるべきなのかもしれない。平均値ではなく、これから新しい統計を取り始める、というような。
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